定年を迎えるに当って(2)





          平成29年2月
          馬場 孝師(川島町在住・彦根市出身)

  英文で書かれた試験法に従って、薬の主薬や原料の理化学分析し規格に適合することを確認するのが最初の仕事だった。上長の係長は、30過ぎの頭と口の回転が速い慶応大学出のバリバリだった。
  「三日、三週間、三ヶ月、三年と言うんだよう辞めたくなるのは会社を、私もそうだった」と言いながら、「二日酔いで調子が悪くても会社に出てこい、倉庫の片隅で寝ていても良いから」と続け、英文のレポートを渡された。自身が検討された公害対策について纏められた報告書だった様に覚えているが、キザだなと言う想いの方が強かったのか内容は覚えていない。その係長は、定時が来たらさっさと帰れ、いつ迄も会社に残るなと、巷間騒がれている鉄則の逆バーションの鬼だった。でも彼が信奉する田口玄一著の実験計画法の週一の時間外の自主勉強会に入ることになった。 厚さ5cm程の上下2巻のやたら小難しく演習問題たっぷりの本である。その本に女優の真野響子のカレンダーをカバーにして本棚に置いたのだが、後年カミさんが発見し訝しく思われた。中身は難しいのに…。
  もう一人、東北大出の写楽に似た面立ちの中途採用で1学年上の先輩がいた。三人に共通するのはROHに強いことだが、彼の奥さんの勤める会社の社長(ニックと呼んでいた)が教える英語のクラスに参加した。B29爆撃機から日本を上空から俯瞰していたそうだ。
  ニックの英語クラスで、ハッと思ったことがあった。ある時、career(経歴)の発音を、指摘された。Janglishの発音はEnglishではなかった。アクセントの位置の違いで別物と感じた。苦い思い出には枚挙がない。自己紹介か何かで、親友がいるとI have intimate friends.と言った途端、眼鏡の奥でニャリと面立ちが崩れた。和英からの直訳では、ニュアンスが違う、深い仲だったのだ。慌てて否定したがニックを楽しませてしまった様だ。ニックのクラスには5,6人参加していたが、アサイメントと称して宿題を渡された。
  アメリカの高校生が大学受験使う英単語集の様なものであった。そのリストにニックが○印つけて、その単語を次回まで英語でその意味が言える様に覚えて来いというものだった。大学受験でもお目にかかったことがない様な単語のオンパレードで辟易し、落ちこぼれ組だったがクラスではウインクしニャリとお茶目な顔付きで受け入れてくれた。
  入社当時の社長は、エイマス・シー・ヒーリーというアメリカ人だった。社長が、社員を前に話をされる時、S田中氏(故人)が通訳した。氏は、早大での中肉中背のロマンスグレーで野太く艶のある低音の魅力のある声で、訳も解りやすかった。退職された後開かれた、月2回土曜日朝10時から12時迄の彼の英語クラスWisteria(藤)に通った。2、3分のニュース英語を聞いた後、何を言っていたかを質問され、英語で答えるというものだった。たった2、3分なのに、なんでこんなに…という思いがした。今度は、そのスクリプトを渡され、パラグラフ毎に指名され朗読し和文に訳す。ついで和文の中から、田中氏が短文を言いそれを英訳するのだ。
  その後、製剤、合成、無菌製剤、環境安全衛生(EHS)を経て、メディカルデバイス部門(MD)に異動し肺がん、胆のう摘出に用いられる手術器具の業務に携わった。アメリカの親会社の買収に伴いメディカルデバイス部門が、解散され再び工場の環境安全衛生に戻り、暫くして米親会社が主導する品質保証システムの改善活動の導入(SCI)を担当することになった。
製剤に異動した頃、マイコンに興味を持ち始めNECのPCを買ってBASICを齧っていた。MDでのカリフォルニア研修から始まり、EHSではフィラデルフィアに2回,SCIでは中国上海、シンガポール、台湾にグルーバル、アジアパシフィックの研修・会議で、QAではアイルランド、そして今回イギリス、フランスに業者GMP監査で海外に行かせて頂いた。 平均寿命の80.79歳までの15年余り、如何に生きるか。棺桶に入る前には、亡くなった継母の様に毅然としていたいものである。母は、彦根市立病院で医師から腹部レントゲン写真の腫瘍の説明を受けた際、気丈に「先生、私は死ぬことなんかちっとも怖くないわ。私は十分生きた。」と言い、「こちらに来たら」と誘っても、「もうちょっとこっちで頑張るわ」と言っていた。FDAのGMP監査前日に、カミさんから「そっちに行っても良いか」と母から夜電話があったと、聞きやっとその気になったかと思った矢先、その翌朝父から食卓で亡くなっていると訃報を受けた。口八丁手八丁で竹を割った様な性格だった母の死に様であった。
  心と体を健全に保ち残りの人生を悔いのないものにしたい。



  
定年を迎えるに当って





          平成29年1月
          馬場 孝師(川島町在住・彦根市出身)

  1月31日をもって会社を去ることにした。定年退職は65歳の誕生日の3月12日だが、
有給休暇を使わせて頂く事にし、一月半早めに2016年3月に前職の早期退職日翌日
からお世話になった会社を離れいよいよ本当に年金生活者の仲間に入るか、それとも
もう一度踏ん張り働くか思案の為所である。天の声、カミさんは働けと仰せだ。
  65年を振り返るとあっと言う間だった。皆そうなのだろうか?人生に無駄はないと
教えられたことがある。You are what you eat.何をしていたにせよ65年間の
時間を費やした結果としての今の自分を、金魚鉢の中にいる他の金魚達と一緒にいる姿
はどんな風だろうか?地味か、派手か?太っているか、細いか?働きはどうか?美味そ
うか?まあいいか〜今更過ぎたこと言ってみたところでどうなる訳でもないのだから、
これからは今この時を大事に生きて行こうじゃないか。所詮引き出しの数は少なく中身
は限られているので人生の棚卸しなどと言う程大袈裟なものはないが、引き出しをひっ
くり返して観ると何が出てくるのだろうか?
  中仙道は彦根、宿場町であった鳥居本で生を受けた。本陣、赤玉神教丸、柿の渋を塗
った鳥居本合羽が盛んであった。
  子供の頃は、合羽屋の広っぱで友達と三角ベース野球をして遊んでいた。春は近くの
里山でワラビやゼンマイなどを摘み、夏は矢倉川で小鮎を、秋は柴栗を採りに近くの野
山を飛び回った。冬は火鉢でかき餅を箸で伸ばし焼いて食べた。
  幼稚園時代は、豚のブーフーウーのブー役だったか。
  小学校時代は休み時間が待ち遠惜しく、校庭を走り回った。
  中学時代は英語に初めて接したこと、中間試験や期末試験、実力テストまた高校に上
がるための入学試験があることに驚いた。入学したばかりの頃、3年生のお姉さんから
声を掛けられた。眩しく気恥ずかしかった。同じ頃、短髪の浅黒く長身の上級生が昼休
み校庭の鉄棒を蹴上で上がりスイングしているのを見て格好いいと、自分もやってみよ
うと教えて貰った。今から思えば、あの頃は随分痩せていたのだ。中学2年の夏休み、
座敷の縁側に座り机を置き、英語の教科書だった、開隆堂New Prince Readersの1
と2の習ったところまでをノートに書き写し、和訳を右の頁に書いて覚えた。
  覚えることでは中学の安田先生に中国語の歴代を覚えさせられた、殷、周、新・・・
中華民国、中華人民共和国とお蔭で未だに記憶に残っている。
  高校時代は、1年生の秋祖父、母が亡くなり哀しく暗かった。その頃だったギターと
の出会いは、国鉄の車掌だった父が買って来たのだ。継母が来て大好きだった生母への
思いとの葛藤をどうして良いのか分らず、先に同じ境遇にいた友達の家にお邪魔してい
た。近くの施設で親元から離れて暮らす子達と野球の試合を良くした。その友達がピッ
チャーで自分はキャッチャーだ。彼が投げるカーブやシュートがホームベースのストラ
イゾーンを通りミットに受け止める瞬間の手応えが実感できるのが何より楽しく嬉し
かった。
  大学に進み親元から離れ一人で1畳板の間3畳の珠算学校の2階の下宿で暮らすこ
とになった。他に四畳半の部屋が4部屋あり一人だけ電気科学科の2年生だった。銭湯
35円、下宿代3千円、朝食60円、夕食100円、授業料月300円?だったか。授業料
千円の値上げ反対に賛同し授業料を延滞し抗議し大学から実家に苦情が届き叱られた
が、あれから国立大学の授業料は上がる一方だ。家から仕送りは1万円、奨学金のお世
話にもなった。入学当時、母に持たされた片手鍋は結婚してからも大活躍で重宝して使
っていた。当時は、梶原一騎の空手バカ一代が人気漫画で空手もやってみたいと思った
がギターを弾く爪が気になりサッカー部に入った。毎日練習の後、同宿の静岡出身の山
下君と大学裏の海岸を走った。そのお蔭で、タダでさえ濘んでいたグランドなので雨の
日はロードに出るのだが、帰路のゴールを、歯を食いしばってキャプテンと競った。
  某綾小路ではないが、あれから40年、今や何をか言わん哉、言わずもがなである。
  卒論の頃は、助手の先生の官舎に泊めて貰い朝大学まで自転車に載せて貰っていた。
  夜遅くまで守衛に文句を言われながら実験室で、リンガホンの英語を聴き真似をしな
  がら実験をしていた。工業化学専攻であったが、当時は光化学スモッグ等公害問題で
  人の健康を害するものはいけないと思っていた。人の健康に寄与できるなら良いなと、
  求人のあった製薬会社に入社し、品質管理部に配属された。武田製薬とアメリカン・
  サイアナミットとの戦後初の50−50%の合弁会社で、入社当時はまだ数少ない週休
  二日制の会社だった。オイルショックで、初任給は前年より2万円以上上がり8万円
  半ばだった。  2月に続く