株式会社矢尾百貨店創業270周年記念にあたって


 平成30年12月
 横田昇(さいたま市在住)

  2018年10月25日から29日の5日間、矢尾百貨店270周年記念行事に合わせて「近江物産展と観光展」が滋賀県東京本部主導で開催されました。  
  日野から進出し代を重ね、秩父にとってなくてはならぬ企業とし活躍している矢尾百貨店、創業270年おめでとうございます。我々県人会員にとっても心の拠りどころでもあります。
  今後とも末永い繁栄を祈念いたします。埼玉県内においても屈指の老舗企業であり創業年の歴史では県内上位10社にランクしています。
  日本歴史の中で社会を激変・激動した3つの歴史がある。1つは戦国時代、2つ目は明治維新、3つ目は太平洋戦争である。3つ目は最近のことでご存知の通りであるが、いずれもが社会に大規模な対流を起こした。実にこの3つのうち2つを矢尾が今日までに遭遇していて、いかにこの難局を乗り越えてきたか振り返る。
(現在矢尾百貨店・矢尾本店等グループ会社になっているが、ここでは含めて矢尾と表記する。  又、文中 敬称略)  
  創業者はその後の矢尾喜兵衛。当時の蒲生郡中在寺の大橋利兵衛の次男として1711年に生まれた。幼名・新治朗、のちに喜兵衛と改め同郷の矢野新右衛門の店に奉公し10代半ばには矢野の出店、秩父・野上村の日野屋五良右衛門方に転勤となった。喜兵衛39歳のとき日野屋の支配人を最後に独立することとなったが、主家との関係また支配人の地位を捨ててまでの独立には相当な覚悟があったことと思われる。  
  寛延2年1749年8月秩父大宮郷上町で屋号「升屋利兵衛」とし酒造業を始めたが「利兵衛」は父親の名前を冠したものである。このとき大橋姓を改め矢尾姓を名乗ることになる。創業にあたっての元手金は120両であった。このうち60両は日野屋からの出資、残り60両を自前で充てているが店員の年給が2両の時代であった。主家への恩義・信義を重んじた矢尾の考えが反映されている。創業から10年もすると事業は軌道にのり49歳で結婚、三男一女をもうけて1784年74歳で他界した。初代は近江商人の徳目である「誠実・勤勉・倹約・堅実・忍耐」と共に「陰徳を積んで地域社会に奉仕することを最大の善とする精神」(陰徳善事)の顕現ある「積善積徳」の実践を植え付けた人であった。又、主家に対する恩義も決して忘れることなく代々受け継がれ4代目喜兵衛の時代には主家の経営危機を救うため当時総資産の半分8000両という大金を援助、100年経過後に創業時の恩義に報いている。
  2代目喜兵衛は約40年間経営に携わるとともに、矢尾の末広がりを願い親族などの安定と発展への目配りを怠らなかった。しかし2代目には男の継嗣がなくそこで61歳のとき、弟の小兵衛に3代目喜兵衛を任せ、1841年2代目喜兵衛は80歳で亡くなった。矢尾が初代2代目3代目と経営基盤を固め発展するなかで時代は大きく転換していく。幕藩体制の立て直しを図るため寛政と天保の改革があったがあらゆる面で行き詰まり、時代は急速に新しい局面に展開していった。また享保の大飢饉さらに天明の大飢饉が襲い百姓一揆の激増、武州でも各地で打ち毀しが起こった。酒造業の矢尾も飢饉による多大な被害を受け米不作による酒造りの減石から休石となったが、このような情勢でも矢尾は白米の安売り、施米などを行い幕府よりその功を評価されている。「陰徳善事」を顕現した「積善積徳」を店是とする矢尾の真骨頂である。3代目は兄を継ぎ1843年73歳で隠居するまで店勢の伸長に心身共に尽くし、1849年79歳で亡くなった。
  時代の波に揉まれながらも艱難辛苦を乗り越え、4代目喜兵衛の代になると大きな変化が生まれた。1845年主家への8000両の援助を機に「升屋利兵衛」は名実共に独立した。そして武州各地に出店し、酒造業ほか質屋や絹の買い継ぎなど一層生活に密着した商いを展開していくことになる。創業100年を超え勢いますます盛んとなるなかで、4代目は1856年48歳の若さで亡くなるのである。
父を失ったとき、5代目喜兵衛は8歳であった。またこの2か月前に母も亡くしている。ここで矢尾は3代・喜兵衛の次男・治兵衛の後見を受けることになった。ときに時代はペリーの来航もあり幕府が窮地に追い込まれた幕末の時代である。5代目は13歳で初向店し、叔父・治兵衛の庇護の下経営に専念した。幕末の世情不安のなかで秩父でも打ち毀し事件に遭遇するなど動乱の社会情勢であったが、5代目はさらに大きな試練を受ける。1870年(明治3年)叔父・治兵衛を失うのである。5代目若干21歳のときである。明治維新の世情不安を背景とし1884年(明治17年)秩父事件が勃発したが、幸いなことに被害はなかった。本来ならば打ち毀しの対象と思われたが、事件の最中でも店を開いて営業を勧めたという。矢尾を悪徳商人とは見なさず日ごろから良き理解者として好意的に受け入れていた。初代からの「積善積徳」の結果である。幕末から明治にかけ出店の整理などを経て、1910年合名会社組織への転換を図り事業の拡大を図りつつ新しい時代に対応した経営体制に衣替えした。1915年(大正4年)6代目喜兵衛に任せ隠居している。その間、明治10年の売上1万2886円99銭から明治45年には46万3777円97銭と35倍以上の伸びとなっていた。1928年80歳で亡くなった。
  6代目を継いだ喜兵衛の偉業は1923年(大正12年)、埼玉県下で初めての鉄筋コンクリートを使用した3階建ての店舗である。東京・丸ビルと同じ年に完成した。この時期から事業の主力が物品販売となり、質屋・信用貸しの金融業から撤退している。6代目は1938年に亡くなり、長男・精一郎が7代目喜兵衛を襲名した。6代目の遺志に従い公会堂建設費と上町基金を寄付している。
  時代は太平洋戦争へと突き進む混迷と暗い時代での継承であった。物資の不足、徴用・召集と人の不足と経営の自由を奪われ矢尾の前途に大きな影を投げかけた。ただ救いだったのは空襲による大きな被害を免れたことで、終戦後いち早く立ち直る気持ちを持てたことであった。1951年株式会社矢尾商店を設立し、新しい組織体制で百貨店としての事業を確立し戦後復興期に攻めの経営を推し進めた。
  7代目喜兵衛は1961年57歳で急逝する。8代目が決まっていないため弟の悌三郎が陣頭指揮をとり4年後に伊夫伎直秀が8代目当主を相続し経営の一翼を担い、さらに矢尾を飛躍させることとなった。まず8代目が悌三郎と二人三脚で取り組んだのが本館の増改築で1970年第1期工事に着手している。さらに1975年に第2期、1982年に第3期増床を終えると7791平方メートルとなった。
  8代目当主・直秀が社長に就任したのは1977年である。この時代は激化する地元外の資本競争に対抗するためソフト面では、伝統によりかかることなく、伝統から「教訓」を引き出すことで、常に新しく生まれ変わっていこうとする「老舗」の堅実経営を示すため3か条からなる経営理念を作成し、人材育成のため新人事制度を導入した。ハード面では酒造部は株式会社矢尾本店と法人化し「酒づくりの森」を開館、ベスト電器ヤオ秩父店のオープン、さらにメモリアル秩父を設立した。
  9代目当主を継いだ琢也社長は、270年続く矢尾家で初めて生粋の秩父生まれ、秩父育ちである。「物を売るだけでなく秩父の地を愛し、秩父に役立つ商売を通しながら秩父の人々の人生において、矢尾という企業がどれだけかかわっていけるかが私達の最大の思い」との決意で、老舗企業という重圧をうけながら創業300年にむかって走っている。                                              以上
  なお本レポートの作成に関し「矢尾250年史」を参考にさせていただいた。