継体天皇と近江の人々


 平成31年5月
横田 昇(さいたま市在住)

  令和元年5月1日新天皇が誕生した。初代神武天皇から数え126代天皇である。2600年以上の歴史があり、その間常に国のリーダーである系統は全世界を見渡してもない。
  もっとも天皇の実在が推測されるのは10代崇神天皇からで、史実として確認できるのは15代応神天皇からである。しかし25代武烈天皇の後、継嗣(けいし)が途絶えたため応神天皇5世孫の継体天皇が26代天皇となった。聖徳太子(継体天皇ひ孫)の100年程前のことである。
継体天皇(西暦450年頃~531年)は、近江・高島三尾で父・彦主人王(ひこうしおう)母・振姫(ふるひめ)の子として誕生したが、幼小期に父を亡くし母の実家がある越前三国で育った。父・彦主人王は近江・坂田の豪族・息長氏(おきなが)出身で、一族は古代より天の川一帯を支配し応神天皇の妃に娘を嫁がせるほどの力のある豪族であった。因みに姉川一帯を支配したのは坂田氏で、天の川・姉川ともに現長浜・米原市に位置する。天皇となった継体の后妃は9人いたが息長氏から1人、三尾氏から2人、坂田氏から2人と近江出身が多く、息長・坂田の地は応神天皇からつづく王家ゆかりの土地である。
  継体は天皇になったがすぐには大和(奈良県)には行かず、大阪・樟葉、京都・筒城、乙訓宮に19年過ごし、大和に入ったのはその後である。継体天皇の支持勢力である近江・尾張・越前を中心とした豪族に対し旧来の大和朝廷勢力との対立があり、最後に継体が大和勢力を倒し526年大和に都をおくことができたと考えられる。一方朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が競い合う時代で非常に緊迫した情勢があり、大和朝廷も大軍を率い朝鮮半島に往かせた。そのため水運の良い淀川水系を重要視したとも考えられる。又朝鮮半島問題に絡み北九州の豪族・磐井氏が起こした「磐井の乱」が527年発生し国内でも緊迫した情勢があった。極めて国内的にも国外的にも厳しい情勢を乗り越えた継体天皇は大和での体制を固め、北九州から東北南部までをほぼ支配下に治めた。
  継体天皇のあとに、子・欽明天皇(きんめい)が即位したが、継体・欽明天皇の時代に朝廷の出先機関として地方に「屯倉」(みやけ)を設置し、税の徴収、戸籍制度の実施、地方豪族への支配力を強めた。継体天皇は我が国史上初の、天皇による中央統一国家を整備した天皇である。さらに仏教は継体天皇の頃から浸透し、欽明天皇の538年正式に仏教公伝した。継体天皇こそ近江・尾張・越前の豪族を母体とし、応神天皇5世孫の縁で天皇となり現在日本の原型を創りだした天皇である。
欽明天皇の次に、継体天皇孫・敏達天皇(びたつ)が30代天皇に即位し、息長氏出身の広姫が皇后となった。その子・押坂彦人大兄王子(おしさかひこのおおえのみこ)は天皇にはなれなかったが王子の子が舒明天皇(じょめい)となりその後、舒明天皇の系統が天智・天武天皇はじめ現在の皇室の流れとなり天智・天武天皇の兄弟は、押坂彦人大兄王子を「皇祖大兄」(こうそたいけい)と位置づけた。このように息長氏のDNAが今回の新天皇にまで流れているのである。今日でも広姫の陵(みささぎ)は長浜市と米原市境、村居田字北屋敷に「広姫・息長陵」として宮内庁によって管理されている。
  参考  近江の古代(3世紀から6世紀頃)豪族
  伊香郡:伊香氏 坂田郡:息長氏、坂田氏 犬上郡:犬上氏 愛知郡:依知秦氏
  蒲生郡:蒲生氏、佐々貴山氏 甲賀郡:甲賀氏 野洲郡:安直氏 栗田郡:小槻山氏
  滋賀郡:和邇部氏、近江氏、小野氏 高島郡:三尾氏、角山氏
  1月多賀大社犬上宮司が亡くなったが犬上氏の末裔と推測される。
参考資料 古代国家の形成:直木考次郎 継体天皇の時代:高槻教育委員会 神話から歴史へ:井上光貞