安土城址吟行記


 令和 1年9月
松野 稔(春日部市在住)
   
  今回、母の見舞いを兼ねて能登川(現東近江市)の実家に戻ることになり、合間を見つけて車で10分程度の近場にある安土城址を訪れて、習いたての俳句でも詠んで投稿のネタにすることとしました。  

  私の実家は、JR能登川駅と八日市駅を結ぶ県道神崎線沿いにあり、バス停佐野から徒歩1分のところです。  
  真向いの家が埼玉滋賀県人会会員の須田元三さん(元ちゃんと呼んでいました)の実家になります。  
  三十数年前に土蔵造りの我が家を解体した時に梁に書かれていた内容から、元は須田家の醤油蔵であったことが判明しました。  
  元ちゃんの話によると、子供のころ川で溺れているところを私の母(現在105歳)に助けられたと言っておられました。
  近所というのはいろんな関わりがあるものだと感じさせられます。  
  また、同じく県人会の塚本明夫君は同学年で、彼が八幡商業高校時代に我が家の前をチャリンコで能登川駅まで通っていたそうです。当時の我が家は饅頭店を営んでおり、行きかえりに饅頭の湯気の匂いを嗅いでいたとのこと。私はいつもつまみ食いしていましたが、さぞ羨ましかったことでしょう。  

  余談はこの程度して、安土城址吟行記に移ります。  
  安土城は安土山の山頂に聳えた城で、明治初期までは三方を琵琶湖の内湖である大中の湖に囲まれていたそうです。 昭和30年代に大干拓事業があり、大中の湖は埋め尽くされました。信長の時代は、内湖の岬の頂上に立つ勇壮なお城だったのでしょう。

秋澄めり郭(くるわ)三方琵琶の湖  
  といった感じでしょうか。
威を残す天守の礎石今朝の秋  
  安土城の天守跡には礎石が整然と残されています。
夏雲やをどる(踊る)朝鮮通信史  
  安土山とその東側に位置する繖山(きぬがささん)とのくびれた
  位置に北腰越峠があります。ちょうどこの下をJR琵琶湖線の
  安土山トンネルが走っています。この峠を通る道を朝鮮人街道
  と云っていました。信長時代から江戸時代まで朝鮮国の通信使が
  この道を通って異国の文化を落としていったとのことです。
楼閣の燃えてこの丘鰯雲  
  本能寺の変を受けて消滅した城跡に今や秋の鰯雲が漂っています。
汗ふき拭き近江あきんど天秤棒  
  最後に、塚本明夫君の故郷は、五個荘町金堂(現東近江市)で、
  近江商人の著名人を数多く輩出しています。昔は、天秤棒を
  担いで全国を行脚したそうです。
   
数々の駄作、ご清読有難うございました。