楽浪(さざなみ)志賀(しが)・・・Ⅱ  

令和2年4月
近江商人研究会  武田将彦

  芭蕉が古里といったのは、奥の細道の旅を終えた芭蕉には、深川の庵は人に渡してしまっているから、帰るべき家がない。膳所の門人に世話になりながら、翌年の四月に石山の奥、岩間の後ろの国分山の幻住庵に落ち着きます。そこで「幻住庵記」及び「幻住庵賦」を書き残しています。そこには現実の野心や希望に憔悴した若い時代の芭蕉もいますし、無能無才を悟った芭蕉、信仰の奥に尋ね入る芭蕉もいます。兎に角種々雑多の形に悩んだ芭蕉の姿を如実に表現されています。
幻住庵記の終りは、「 先ずたのむ 椎の木も有 夏木立 」で結んでいます。
なお、幻住庵は芭蕉の門人の一人菅沼曲翠が、伯父幻住老人定知の旧庵に手を加えて、提供したものです。  
  ここから古き近江を気のおもむくまま散策してみます。国分山の麓、瀬田川沿いには西国三十三番札所観音霊場の古刹石山寺があります。石山寺といえば凡人の私が思い浮かぶのは紫式部です。紫式部が参篭して源氏物語の「須磨」「明石」の巻の着想をした、本堂には「紫式部の間」があります。また、「蜻蛉日記」の藤原道綱母や、「更級日記」の著者菅原孝標女も参篭しています。この時代石山寺は、都から近く今でいう観光名所だったのかもしれません。  
  目の前の瀬田川は、瀬田の唐橋を制しないと都へ上れなかったので、歴史の上では交通の要所としてたびたび登場します。平安時代瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々が恐れて橋を渡れないのを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡りました。大蛇は人に姿を変え、三上山を七回り半する大百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治をお願いしました。藤太は強弓で射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されました。三本目の矢に唾をつけて射て、ものの見事退治しました。この伝説は、「俵藤太絵巻」や「太平記」の十五巻に書かれているそうです。なお、俵藤太は、平安時代中期の貴族、藤原秀郷で、平将門追討の功により下野、武蔵の二ヵ国の国司になっています。  
  三上山の近くに祇王の生誕地祇王村(現野洲市)があります。「平家物語」第六巻六「祇王」に登場する祇王は、母の刀自、妹の妓女とともに京で有名な白拍子となり、平清盛に籠愛されました。干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に頼み、望みは叶い、祇王井川として現存しています。また地名を冠した祇王小学校もあります。その後、清盛の籠は仏御前に移り、去り際に祇王が障子に残した一首が、
「 萌え出づるも 枯れるも同じ野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき 」で、
母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨住生院(現祇王寺)で、二十一歳?で仏門に入った寂しい物語ですね。
  私が武将として好きな石田三成の居城佐和城跡の山の麓に、井伊家菩提寺の臨済宗の龍潭寺があります。伯父が亡くなったときご住職と長々と三成談義をさせていただいたことを思い出します。この龍潭寺は、佐和山を借景にした方丈南庭「ふだらくの庭」は枯山水庭園、書院東庭「蓬莱池泉庭」は池泉鑑賞式庭園であり、書院北庭「露地庭」があります。また、方丈襖絵は芭蕉十哲の一人森川許六によって描かれています。許六は、芭蕉十哲の一人で彦根藩士であり、槍術に通じ、漢詩を修め、絵は狩野安信に学び、和歌、俳諧は初め北村季吟に学んでいます。このように許六は、芭蕉と同じようにいろんな顔を持った俳人でした。  
  さらに歩を進めていくと、近江と美濃の国境に「寝物語の里」があります。「寝物語の里」という地名は、美濃と近江の国境に細い溝を隔てて並ぶ宿で、寝ながらにして話せたということからきています。司馬遼太郎さんの「街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩」にこのことが書かれています。京の茶人仲間では、近江の竹で作られた茶杓が、一つの筒に収められ“寝物語”と名付けられています。
司馬遼太郎さんの街道をゆくから始め、街道をゆくで終われて、やっと終着駅にたどり着いた心境です。