<人生手帳> 東日本大震災


「あの日は忘れられない」

 
令和3年4月
奥村 次雄(春日部市在住)
  いわき市小名浜のショッピングセンター(ヨーク・ベニマル)の中にある呉服店で、3月12日(土)~14日(月)迄の催事である。  
  2011年(平成23年)3月11日、自宅を10時に出発し常磐自動車道、いわき湯本 インター(13時40分)に降り呉服店に(14時10分)到着。荷物を2階の売場に運び、 さあ準備をしようと始めたら、突然、ガサガサガサと地響き共に揺れ出した。もう立って いられない状態である。売場には成人式の振袖客がいて娘さんが非鳴をあげて・・・・  
   店の裏の非常階段で1階の駐車場へ、当然、私も一緒に走り降りる。駐車場は避難する 買物客でごった返し、表現のしようがない混乱である。嵐の海の船の甲板に居る雰囲気だった。館内放送では震源地は近くでマグニチュード9、震度7という今迄経験した事のない 事である。揺れも次第に収まりつゝあるが体が揺れ真すぐに歩けない。  
  落着いて来たので2Fへ行く事にしてエスカレーターで登ろうとしたら、スプリンクラー の水が滝の如く流れ落ちてきたのである。通路を挟んだ向かいの酒屋は棚の酒びん、ビール ワイン等、すべてのフロアに落ちガラスビンが散乱し、アルコールの匂いが蔓延する。  
  その日は仕事にならず、予約先のホテルルートインへ帰る事にした。駐車場に行ってみると自分の車が液状化に飲まれ車軸まで埋まっているではないか。余震は続き、夕方近くに なり雪が降ってくるし大変な思いをした。結局、呉服店の社長に送ってもらう事にした。 20分の所、1時間半かけて交通渋滞の中を送ってもらった。  
  ホテルに着くとロビーには140名(ホテル側から)の宿泊客で混乱していた。よく見ると殆どの人が作業服である。聞いてみると東北電力火力発電所の会社関係の人達である。  
  その日はロビーの大型テレビから流れる地震被害の現場からのニュースで、前年、秋田からの帰り三陸海岸沿いに走ったから全て風景は鮮明である。以前、食事に行った料亭が津波に流されて行くのはショックだった。夕食はおにぎり2ヶづつ配られる。寝る所は部屋は使えず大半はロビーで毛布1枚にくるまっていた。私は風呂場の脱衣所で寝た。朝、早く起きてコンビニ等探しに行ったが皆無である。  
  この日3月12日(土)はJAFが来る迄待機、午後3時30分に同乗して現場に向かい、 車を引き揚げてもらった。ショッピングセンターの中には入れず、車は軽傷で何よりであった。ホテルに帰り夕食はおにぎりですます。勿論、風呂には入れず。昨日の宿泊客はタクシー相乗りで福島市に向かったという、殆どいなかった。この日宿泊客は10名位で、今日着いたという若い女性が6名いた。聞くところによると自動車の免許証を採りに来たという。 それも「いわきモータースクール」は10日間滞在で免許証が採れる事で有名らしい。
  今日も客室が使えず脱衣所で寝る。
  翌日3月13日は商品片付の為ショッピングセンターに行き、段ボール箱に(10:00~14:00)荷造りして、ホテルへ帰る事に駐車場に来たら親子が抱き合って泣いていた。
  夕食はおなじみの居酒屋に特別入れてもらい、焼き鳥を焼いてくれた。酒飲みの私は水を得た魚の如く、ガツガツして食べた、あの時の味は今でも忘れられない。ホテルに帰ると フロントから「奥村さん今日は201号室で泊って下さい」keyをもらう。
  3月14日、朝食後フロントの前を通ると店長から「今日は原発1号機がヤバイ」という ニュースが入ったから帰られた方がいいと思うよ、と教えてくれた。ホテルから原発迄は 40㎞の距離である。確かホテルを出たのが午前7時半、しばらく走ると道路の真ん中から マンホールが50~60㎝突出し、慎重に進むしかなかった。ガソリンスタンドは長蛇の列。 国道6号を勿来、大津港、五浦海岸、磯原と帰って来る途中、海岸の突堤に津波で流された車が数十台引かかっており、見るに無残な光景であった。町中の民家の屋根瓦はすべて崩れ落ちていた。
  昼飯は食べず空腹限界。霞ヶ浦迄来た時、私の大好物「うなぎ」の旗が風にひるがえっているではないか。ヨーシ「うなぎ」でも食べて帰ろうと入ってみると誰1人いない、静かである。奥の方から「お客さ~ん、あと一串で終わりダー」と・・・・大きい声で「お願いしま~す」と注文。  
  自宅に午後5時半、無事到着。生きて帰れた事に感謝、感謝。10時間の旅であった。