「わたしのふるさと」
 
西川 雄二(彦根市出身 さいたま市在住)  
  わたしのふるさとは、彦根市石寺町である。昭和43年に彦根市に合併される前は愛知郡稲枝町大字石寺小字下石寺で、昭和30年に稲村、葉枝見村、稲枝村が合併するまでは、 稲村の下石寺であった。琵琶湖に接する愛知郡の西北の隅で、北隣の集落は以前から彦根市の三津屋である。南に2km行くと近江商人の一つである両浜商人の薩摩、柳川である。  
  中学校と役場は東に3kmほど、稲枝駅はさらに遠く5kmほども離れていて、こうした 稲枝の中心部よりもバス便もあった彦根の市街に親しみを感じていたように思う。  
  下石寺のやや北よりの東には、どこからも同じ山容に見えることから、八方荒神の名のある高さ284メールの荒神山がある。荒神山と琵琶湖の間が曽根沼だ。我々はノダと呼んでいて、水田が点在していたが昭和36年(わたしが故郷を離れた年だ!)からの干拓事業で沼は消えてしまった。当時から彦根市だった三津屋の部分は干拓されることなく残り、緑地 公園として整備されている。その境目は地図でも定規を当てたような線で示されている。  
  荒神山の南の山腹に稲村神社があり、近郷の10ほどの集落の氏神で4月18日の祭りには、集落ごとに大きな太鼓が担ぎあげられた。翌日の後宴には田舟をつないで神輿を乗せ、ノダに繰り出した。一回り位年長の若い衆が酒に酔って楽しんでいる姿がかっこ良かった。  
  桜が咲き誇る稲村神社の脇から荒神山に登り琵琶湖を見下ろすと、その手前にノダ、緑の麦、ピンクのレンゲ、黄色の菜の花の田畑がパッチワークのように広がっていた。  
  この故郷で過ごしたのは2才から高校生の途中の17才までの15年間だ。小学校までは2km以上あったため、1年生と2年生は下石寺の分教場の一つの教室で教えてもらった。彦根の高校には自転車で通った。芹川まで来ると鐘紡の工場があり、すぐ市街だった。  
  農村の名望家支配、ボス支配は打破されなければならないと考えていた一方で、高校生の2年間だったが、青年団活動にかなり打ち込んだ。野球やバレーボールの集落対抗戦にでたほか、稲村神社近くから山土を運び出し、砂浜にバレーボールのコートを作ったりした。
    
  石寺です。
 琵琶湖畔のあの純農村の故郷とそこで過ごしたあの時代が懐かしい。生活は不便で食生活も貧しかった。母は生活改善運動や母親大会、原水爆禁止運動に熱心だった。祭事、仏事のはか、脱穀の共同作業など農村共同体も悪くなかった、と今は思える。  
  ふるさとへ廻る六部は気の弱り
  身体が向かうことはかなわないが、
  心はしきりに故郷に向かう。