今は無き蒲生中を想う


令和6年4月1日 
西村 登喜男(東近江市出身 戸田市在住)
  この夏8年ぶりの蒲生中学校 昭和41年度卒業生の同窓会開催案内が来ました。コロナで延び延びになっていたらしいのです。前回は出会うのが卒業以来という人たちもいて、声をかけられて戸惑うことがあったのですが、日を経て あれ思わぬところで名前を聞いたかも⁉ と思い出すこともありました。
  さて我らが母校、蒲生中は残念ながらもう存在していません。学校発足は第二次大戦敗戦の3年後昭和23年、新憲法のもと学制改革で新制中学校として武佐村・市辺村・平田村・老蘇村に出来た中学を、四村による学校組合立として統合し開校され、昭和27年に近江鉄道 市辺駅の南東側に統合された校舎が完成しています。
  このあたりは日本書記・万葉集の時代から蒲生野と呼ばれた所で、学校の北西側には船岡山があり、この山の西から北にかけての地域で天智天皇が狩をしたとされています。船岡山はすぐ近くにあり、丘程度の小山なので校外学習で出かけることもありました。
  私たちの入学は昭和39年 東京オリンピックの年でしたが、戦前に建築の小学校と比べると占領下で欧米の様式が取り入れられたようでモダンなイメージの建物でした。しかし日本の気候風土・生活様式・学風に合わないところがあったようで、私たちのころに改修がされています。また武佐方面から近江鉄道を利用した電車通学生がおり、これも新鮮でした。
  開校後 戦後復興が進み自治体も再編が進み老蘇村は安土町に入り校区外に、市辺・平田村は八日市市となり武佐村は近江八幡市に合併されましたが、私たちのころを含め蒲生中は県下唯一の学校組合立として存在し続けます。昭和56年、戦後の学制改革の名残のような蒲生中学校がついに分離され終焉を迎えます。
  市町村はさらに大きく合併され八日市市は東近江市となり、現在跡地は東近江市立船岡中学校となっています。
  我々のころは1学年300人ほど、八日市市と近江八幡市が半々くらいで6クラスでした。学区が広くいろんな生活環境の生徒がいて、学校運営は難しかったかもしれませんが、分離後の生徒より広く社会を見られたとも考えられ、それなりに学ぶものもあったのではないかと思っています。 埼玉滋賀県人会には私を含め同年度卒業生が3人いますが、私は八日市市ほか2人は近江八幡市出身です。
  クラスは違っていて中学時代には話をしたことは無かったのですが、県人会で話すようになり、それぞれの蒲生中の思い出がところどころで繋がり共通したものになります。これは自治体の枠を超えた蒲生中学校が存在し、300人の卒業生がいた蒲生中の一時代があったからで、この歳になって遠く離れたところで小さな繋がりになっていることに感謝したいと思います。
  船岡中学校の片隅には蒲生中の校歌(船岡山の朝風に~)の歌碑が今も残されています。 しかし朝の近江鉄道市辺駅に降りる電車通学生の集団は見られないでしょう。