私 と 写 経


令和6年2月1日 
佐橋 哲隆(日野町出身 さいたま市在住)
  写経を始めて41年になりますが、その切っ掛けは、1982年7月14日に同僚が殉職したことです。私は近江の片田舎日野町西大路出身で、天正山法雲寺の長男として跡取りでしたが、若気の至りで跡を継がず上京しました。法雲寺は蒲生氏郷の父賢秀公の菩提寺ですが、貧乏寺で雨漏りをタライで受けたり、普通の家庭では米飯なのに水団(すいとん)やさつま芋のつるの醤油炒めを食べていたのが懐かしく思い出されます。
  父は私を跡継ぎにとお経を教えてきましたが、小学校4年生の時これを拒否したのです。その理由は子供のたわいない考えで、その頃は信仰心もなく、長時間の正座に耐えられず、自由に屁も放けなかったからです。わがままな拒否に父は火箸を振り上げ激怒したものの、そのまま諦めました。高校生になって思ったのですが、昔のことですから父は農家の末っ子のため口減らしとして小学校低学年で寺の小僧に出され、苦労を重ねてきた体験上の結果、貧乏寺を継がせないと重大な決断をしたと思います。
  こんな私にもいつしか神仏に対する尊厳から信仰心が生じ、同僚の殉職を切っ掛けにそのご冥福をお祈りするために写経をするようになりました。最初の頃は筆を持つ機会も少なく、書く字はめめず(みみず)が這うようなものでした。そこで原稿用紙を活用して字が枠からはみ出さないよう集中し、週3回は繰り返したところなんとか見られるようになったのです。そして身近な人の別れの時や、各々の故人の命日にご冥福をお祈りしながら写経し、その霊前や墓前にお供えするようにしました。写経は摩訶般若心経ですが、私の実家が浄土宗ですので、通常の写経の他に開祖の法然上人の坐像、仏教の開祖の釈迦如来の立像を図案したものを写経しています。これからもできる範囲で、父母や檀家等への罪滅ぼしと、各故人のご冥福をお祈りしながら写経に努めたいと思います。