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2025年1月1日 原 田 稔(大津市出身 さいたま市在住) |
百人一首の五番目、「奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の声きくときぞ秋は悲しき」はよく知られた歌だが、その作者・猿丸大夫は謎の歌人である。漂泊の田園歌人とか、貴人のペンネーム、柿本人麻呂の別名等々諸説があるが決定打はなく、いまでは伝説上の架空の歌人とされているそんな猿丸だが、少し滋賀県(近江国)にも関係があるのでそのことを書いてみよう。 | ||
「方丈記」で有名な鴨長明が13世紀初め頃(鎌倉時代)に猿丸大夫の墓に詣でるため近江・曽束村を訪れたことを記している。現在は大津市の最南部にあって大石曽束町となっている所である。京都府宇治田原町と極めて近く接している地で、そのためか長明が訪れたのは京都側の宇治田原町禅定寺であるとする記録もあり、事実、今でもその地に猿丸神社というのが祀られている。 |
一方曽束には猿丸の旧跡はほとんど残されていないので、どちらに猿丸の墓があったのかは定かではない。要するに近江・山城の国境あたりに猿丸の墓と伝えられる何かがあったということであろう。 それにしても三十六歌仙や百人一首に選ばれるほどの著名な歌人の墓が、何故このような都から離れた言わば辺鄙なところに設けられた(或いはそのように伝えられた)のであろうか。 |
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それ自体謎を孕んでいるが実はそこにこそ猿丸の実像に迫る重要なヒントがあると私は考える。というのも先に述べた大石や宇治田原を通る道は、今でこそ何の変哲もない地方道の一つに見えるが、古代日本のある時期には大和と近江をつなぐ最短ルートがそこを通っていたのである。古代における近江の重要性を考えると、つまりこの道は後の東海道や国道一号線にも匹敵するほどの役割を果たしていたと言って良いだろう。
例えば天智天皇の大津京遷都の際には人や物資の移動に使われ、また大海人皇子(後の天武天皇)が天智の計略から身をかわし吉野へ逃れる時に通ったのもこの道であった。奈良時代には聖武天皇の紫香楽宮(信楽)行幸や孝謙上皇の保良宮(大津市石山あたりか)への行き来に使われ、藤原仲麻呂の乱を収めるために朝廷軍が瀬田の国府に先回りできたのもこの道があったからであった。しかしその役割は都が京都に移ったことで終わりをつげ、普通の街道として今日に至っている。そこで本題に戻ると、猿丸がこの道の近くに祀られているというのは、彼が先に述べた天智時代から奈良時代にかけての歴史的な事象あるいは人物と何らかの深い繋がりがあったからではないかと考えるのである。更につっこめば、猿丸はこの街道近くに住まいをしていたか、または往来をしていて不慮の出来事に遭遇し、人知れず亡くなったようにも思える。そういう想定あるいは条件に合う貴人(大夫)がいるのではないかと色々な史書・文献を渉猟し続けているのだが、いまだ結論を出せずにいる。 |