10周年記念行事実行裏話


埼玉滋賀県人会会長 山田 正
        平成29年1月元旦


@ 2016年11月23日 近江商人道研究会主催 「商道一筋268年」
   講師 矢尾直秀 会員  参加者38名(懇親会参加者19名)
講師には懇親会参加を願うため一泊してもらう
資料として使用した「近江商人の理念と商法」「三方よし第41号」は彦根に拠点  
を置くNPO法人三方よし研究所の厚意で無償配布
秩父市上町(かみまち)の町会費という公金を現在も預かっていて、地域と共生し  
ているという。

A 12月8日、会報第14号発行。発送には10人の助っ人が来てくれて、事務
所は人でいっぱい。普段は24ページ仕立てなのに、記年号ということで60ペー ジ
仕立てに増ページし、300冊作成。
会報委員会は8回開かれ、毎回修正されたゲラ紙が全員に配られ、チェック。その 
ため使用した裏紙再生紙は約3千枚。印刷だけは外注したが構成・写真・割付けは
すべて手作りである。何よりの自慢は43名の投稿者がいて、全員参加型の会報に
仕立てたこと。
正確をきすための確認や問合せにかかった通信費の総額は計算するのも怖いほど。 
各自に電話代、郵送代の自己負担を強いたことをお詫びしたい。

B 同日に発行された「Hp(ホームページ)会員投稿集」
毎月月初に更改されてる会員の投稿文を5年間分まとめて1冊にした。
偶然、会報と同じ60ページ仕立てとなる。A44枚をA3用紙の表・裏に収めるの
に神経を使う。4人で5時間かけてやっと完成。A3用紙を3千枚購入して200
冊ぴったり。1枚の無駄紙も出さなかった。ホッチギスで中綴じの作業は掌が痛く
なる。4人で手分けして事務所まで運んだが、手が切れそうに重かった。

C 名簿発行
事務局長から何度も督促して会員の9割ほどが提出。何人かは無提出のまま発行。
今は個人情報管理が厳しい。公開することを前提に許容の範囲内で記入願った。
しかし、会員同士が親しくなるためには名簿が必須である。名簿を見て交流の深ま
ることを願う。5年ぶりの名簿発行である。
ちなみに東京滋賀県人の会員名簿は平成4年発行が最後で、260ページもある。
15人×260=約3900人。現在の総会や新年会の参加者は当会より少ない。

D 次回近江商人道研究会
予定表では平成29年3月23日と発表していたが、会場がとれず、3月20日
(月・祝日)に変更。講師は株式会社ニチリョク代表取締役社長、寺村久義氏に
決定。今月22日が創立50周年記念日。その日に合わせて「人生はドラマなり」 
を自費出版。新年会に配布し、これを当日のテキストにして波乱万丈の人生を聞 く。

なぜこれまでして記念行事にこだわるのか。それは竹のように節(ふし)をつける
ためである。最近流行の皇帝ダリアは1年で5メートル以上の大木に育つが、節が  
ないため、霜に当たるとひとたまりもなく枯れてしまう。  
組織を将来に向けて続行させるためには多少の犠牲を払っても節をつけておか
ないと簡単に後戻りしてしまうことが多い。今年の沢山のイベント開催は、会を後
戻りさせないための滑り止め活動でもあると言える。                       
お寺の普請の寄付みたいに「1口1000円2口以上」と年始にお願いしました。 
まだ30名ほどの会員に協賛いただいていないので、上記のような趣旨に賛同して 
いただき、ご協力をお願いします。


気象と私


埼玉滋賀県人会会長 山田 正


  小学5年生の時から気象観測を始めた。気温、湿度、風向、風力、雲量、雲形、雨量
とミニ測候所並である。6年生の遠足のとき、夕方の測定のために途中から帰らせてく
れと申出た。担任は「誰かに代わってもらえないの?」と止めたが、「自分が好きでや
っていることなので他人には頼めない」と言って帰らせてもらった記憶がある。  
  中学生になった時、中学の教員をしていた兄が「こんな下らないことをしている暇が
あったら英語の単語の一つでも覚えろ」と言って百葉箱を壊そうとした。それを見た母
が「正がやりたくてやっていることだからやらせなさい」と取なしてくれた。  
  ちょうど私もあまり意味がなさそうで止めようかと考えていたときだったが、この件
があって止められなくなった。3年生のとき、科学発表会があり、「近江の気象と健康
について」を発表したら、県の大会にまで上がり、3位の賞状をもらった。「湿度が他
県より高く、その結果滋賀県には結核患者が多い」と事実に基いてまとめたのがよかっ
たらしい。近くにヴォーリスさんが作った結核専門病院があったほどである。  
  高校生のときは「物象部」(物理・気象部)に所属した。夜には天体観察があり、部
室に泊り込んだこともあった。気象とは水蒸気の仕業で変化するものであることを学ぶ。  
  大学時代は「ワンダーフォーゲル部」に所属して野山をさまよっていた。夏山合宿は
1週間も山中に居ることもあった。1日3回の短波放送を聞き、天気図を描けるのは私
だけだったので、翌日前進するか、留まるか(沈殿するといっていた)、後退するかの
権限が与えられていた。  
  就職はゆえあって全く自然科学とは正反対の「人の気性」の観察を業とする仕事に就
いた。それでも気象に憧れる気持ちは断ちがたく、平成6年8月に行なわれた第1回気
象予報士試験に挑戦した。今をときめく森田正光さんと共に受験し、共に落ちた。森田
さんは次回合格し、私は午前中の知識試験はともかく、午後の3時間にわたる5000
メートル上空のレーダー解析の試験は雲をつかむ話で手も足も出なかった。54歳の
ときである。
  それから20数年後、再度の挑戦の機会が巡ってきた。定年直前に入会した学会も長
く居る間に企画委員長になり、今年のシンポジュームを企画することになった。たまた
ま高校時代の同級生が気象庁に勤務し、札幌気象台長や本部の予報課長を経験している
友人が居た。彼を基調講演のパネラーに据え、3人の大学教授をミニパネラーに依頼した。
  三上岳彦教授は東大出の地球温暖化についての権威である。八王子の山中にある研究
室を尋ね、46億年前からの気温上昇の図や東京の夜間温度の地区別変遷図など膨大な
観測資料を拝見してきた。祖父が滋賀県・三上山の麓の出身で、先生は現在大宮に住ん
でいることを聞いて即座に埼玉滋賀県人会への入会を勧めてきた。
  森永先生は南極大陸観測隊の女性第1号。家族ずれでモンゴルに行き、2年間、凍土
の研究をされてきた人である。200名以上の学生に気象に関する意識調査をする約束
をしてもらう。この方は前川副会長の紹介で出演が決まった。
  藤部先生とは都内の気象学会開催場でお会いした。気象学会員は4000人もいて、
学会も3日間にわたって開催されていた。テレビの全局で1日に200回以上天気予報
が放映されているそうだが、日本人は世界1気象に関心のある人種だといわれている由
縁である。
  母のお節介が今の晴れ舞台に繋がった。10年日誌も今、3冊目である。3箇所借りて
百姓をやっているが、農事日誌もつけている。必ず冒頭に天気と風の具合を記している。
10年間を1日(じつ)の如く過ごせるのも、お天道様と共に歩んでいれば食い っぱぐれる
ことの無いことを知れたのも気象に関心を持ったお陰である。
  2016年6月24日(金)13時30分から17時20分のシンポジュームは私にとって最後の
晴れ舞台となるかもしれない。チラシを添付したので、心ある方には是非覗いてもらいたい。




埼玉滋賀県人会会長 山田 正


折角、竹本会員所有の事務所をお借りしておきながらあまり利用がされていないので、
この6月から当番制で毎週木曜日朝10時〜16時まで誰かが開けることにした。
 女子会の麻雀会が毎月第4木曜日に使用しているので、福井会員が音頭をとって男も
麻雀を始めることにして6月18日(木)に4人の男が事務所に集まった。
 ポンだのチイだの言い合っているうちに1人の男が「この7月11日の総会がわしの
誕生日や、皆に祝ってもろて幸せ者や」と言った。すると2人目の男が「わしの誕生日
はその4日後や」と言った。そしてもっと驚いたのは3人目が「俺はその4日後や」と
いう。4人目の私は言えなくなってしまった。私の誕生日はその4日後だったのだ。
 しかも3人は昭和15年(皇紀2600年)の生まれである。福井会員が皆の誕生日
を知った上で召集した訳ではないので、全くの偶然である。
(実名を挙げた方がリアルなのだけれども、もしATMの暗証番号などに生年月日を使
っている危険があるので、氏名は伏したが、これは実話である)
 しかし、こんな偶然などがあるのだろうか?血液型や占星術や手相などを全く信じな
い私は、これが偶然だとは思えず、色々推理してみた。以下その根拠付けである。
 現在132人の会員がいる。3日に一回誰かが誕生日を迎えている勘定になるので、
13日間に4人が誕生日を迎えることにはなんら不思議はない。ただ、無作為に集まっ
た4人が同じ誕生月であったという偶然はどう説明したらよいのだろうか?
 そこで昔から「夏子は育つ」という諺があったことを思い出す。寒い冬に生まれると
乳幼児は風邪や肺炎で死亡の危険がある。しかし、夏場なら裸で転がしておいても、蚊
に喰われる事はあっても命に関わる危険はない。親が緊張していない分、のびのびと陽
気に育つのである。
 一方3月生まれの人は、小学校に入学するとき11ヶ月遅れなのに一斉に同じスタート
をさせられる。6歳の頃の1年間の差は大きい。
昔「3月生まれ」という映画もあったが、3月生まれの人は自分を守るためにも背伸び
をしたり、強がりを言ったり、時にはハッタリをかますことも必要になる。いわゆる
早熟タイプの人が多く見かけられる理由である。
 それに比べて7月生まれは年央でのんびり育ち、しかもお祭り好きである。夏が実家
みたいなものだから、決して暑い夏を嫌だとは言わない。ちょっと軽薄な所もあるが、
初めての誘いにもホイホイと出かけて行くタイプが多い。性格は変えられるが気質は変
わらない。一度、「7月生まれ全員集合!」して確かめ合いたいと思う。
「夏蚕(なつご)は育つ」という言葉もある。夏に卵からかえった蚕はよく育ち,大きな
繭を作るという。大暑の日に40歳で私を生んでくれた母に改めて感謝したい。




女子会の発足を祝す

埼玉滋賀県人会会長 山田 正


 今年の2月24日に浦和パルコに女性会員20名が集まり、女子会として「短歌」の
会、「手芸」の会、「麻雀」の会の発足が決まったようである。その辺の経緯については
毎月、月初の1日にHP更新をしている6月1日付け下田道子会員投稿に詳しく書かれ
ているので読み直していただきたい。初めて経験した麻雀の感動を、ポンだのチィだの
擬音を交えた臨場感あふれる面白い文章で綴られていて、、思わず噴出してしまう箇所
が何箇所もあった。
 もともと麻雀の会は創設当時から計画があって、橿原隆会員がルール作りや雀荘の
予約までしてくれたことがあったけれども、雀荘を貸切にするためには最低3組が必要と
いう条件が満たせず、そのままになっていた。
 今回勇気ある女性陣が橿原会員を拉致し、月1回の開催日程をもう既に12月まで決
めてしまった。哀れにもルールをマスターした暁には、講師をポイするという。蟷螂の
世界を髣髴させる過激な発言である。
 下田さんは私に言った。「会長といえども女子会には入れませんよ、どうしてもという
ならスカートをはいて来なさい」と言われてしまった。

 もともと麻雀は中国人が考え出した遊びである。尖閣問題に関連してか、最近の日本
では中国(人)を見下したような表現をする人がいるが、こと麻雀のルールを考案した中
国人の頭脳の明晰さには敬服せざるを得ない。上がり方は100通り位かも知れないが、
4人でやるのだからその組み合わせは1万通りではすまない。遊びというより哲学の世
界である。恐らく一生打ち続けても同じ局面は2度と現れない。それほど奥が深く、興味
が尽きない。だから中国では国を傾けるということで、国禁になったほどである。
 ちょっと大きな話になりすぎたので女子会の話に戻すが、少し心配することが1つある。
橿原雇い人から「賭けない」「飲まない」「吸わない」の3大基本ルールは徹底されてい
るようだが、いよいよ実戦が始まったら、時と場合によっては刃傷沙汰にならぬかと
心配する。
 どんな場面かというと麻雀は4人でするもの。4回に1回上がれれば良しとしなけれ
ばならないのに、2回に1回、いや毎回上がらないと気のすまない人が出たりする。
自分の手作りばかりを考えていてはいけない。3人の捨てた牌を見て相手がどんな手を
作っているか想像しなくてはいけない。捨て牌によっては自分の手を臨機応変に変える
必要がある。
 難しい手は点数も高い。簡単に出来る手は点数は低い。一生懸命高く、美しい芸術的
な手を作っているのに、一番簡単で一番安い手の「平和(ピンフ)のみ」で上がられてし
まえば、競技はそこで終わるのである。そんなことが3度、4度と続いたときにあなたは
冷静でいられるのか?
東京都議会のセクハラ発言のあった直後なので、この発言も危険ではあるが、嫁姑の
関係が永遠であることを思えば、3人の姑や小姑をやりこめないと勝てない競技が果た
して「ボケ防止のため」などとのんきなことを言っておれるのか、ストレス発散どころか、
ストレスを抱え込むことになりはしないかと心配である。
 下田会員は「チュンチュン・ピーチクパーチク雀の騒がしいこと」と自分達の初体験を
雀に例えて表現しているが、最初の「麻雀」の「麻」の字は麻薬の「麻」であることを
お忘れなく。
ニコチン中毒になることを目的に煙草を吸い始める人がいないように、徹マンして朝帰
りするために麻雀を始める人はいない。
 そういう私も新婚時代に徹マン・朝帰りだけでなく、自宅にジャン友を連れ込んで新妻
に飲食の接待までさせていた。今から思えば身の毛のよだつ思いである。



まつり

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正


  2013年12月3日は日本三大美祭りの一つと言われる秩父の夜祭である。40数
年前、立川に住んでいて、新婚3ヶ月のときに車で秩父の夜祭に出かけた。新婦は飯能
にある正丸峠が車酔いで越えられず、仕方なく引き返した。
  翌日病院に行ったら「ご懐妊です」と言うことだった。それ以来、秩父の夜祭行きは
実現していない。当会の10周年には矢尾さんの力をお借りして、夜行バスのイベント
開催を提案したい。
  2013年12月10日は大宮・氷川神社の「大湯祭(だいとうさい)」である。
十日市(とうかまち)と呼ばれる市が盛大に立ち、この日は24時間賑わう。
  この氷川神社は2000年の歴史があり、氷川神社名の社は全国に280数社ある。
大宮はその中心で、「大いなる宮居」として大宮の地名がつけられたという。
  当会がいつもお世話になっている「清水園」は明治3年創業で氷川神社入り口に1万
坪の敷地を擁していた。初代・清水友吉氏は大宮駅前に開いたそば屋「東京庵」が清水
園の始まりで、その料理の美味しさが評判になり、一気に繁盛した。
「氷川神社で挙式して清水園で披露宴をする」というのがステータスで、若者の憧れで
あったという。西沢会員が清水園に勤務する関係で便宜を図ってもらっている。
  2013年12月12日は浦和の調(つき)神社のお祭りで、12日市(まち)の大
市が立って、数百の露天商が並んだ。
  古代に、貢物を納めるための倉庫が建てられた。貢物を運び入れるのに鳥居は邪魔に
なるので、この神社には鳥居がない。狛犬ではなく,兎が置かれている。「つき」とい
う名から兎になったのではないかと思われる。全国でも珍しい神社である。
  昔からツキを呼ぶ神社として、「孫の手」を少し大きくしたほどの熊手が縁起物とし
て神社で売られている。
  たまたま当日は会報8号の発行のために早朝から編集委員6名、助っ人4名が浦和
パルコに集まり、印刷・製本・発送業務をしていた。今井会員の段取りが良かったので
トラブルに巻き込まれることなく、早めに終了した。
  地元に住む福井会員の案内で祭り見物をする。会報発行と新年会案内状の発送のプレ
ッシャーから開放されて、みな童心に帰り、露天商を覗いて歩く。福井さんは1500
円の熊手を買った。毎年購入しているという。これで金をガッポ、ガッポとかき集める
のだそうだ。
  昨年、南ブロックの会合で山口会員から参加者全員に「これを財布に着けておけば必
ず金が溜まる」と言ってプレゼントされた金ぴかの打出の小槌も売られていた。いつも
つけていないとだめだと言われたが、いただいた人は今、金が溜まっているはず。
  2013年12月の大晦日、NHK紅白で北島三郎が「まつり」を歌って50年連続
出場で、後進に道を譲ることを宣言した。77歳。
  この秋、北進近江商人追悼法要で松前を訪問する途中、町役場の人が北島三郎の生
家を案内してくれた。八王子の御殿と違い、質素なたたずまいであった。
  北海道側最初の陸上駅、「知内(しりうち)」駅のある街が誕生の地である。
  「まつり」は、なかにし礼の作詞である。

男は祭りを そうさ
かついで生きてきた
山の神 海の神
今年も本当にありがとう
白い褌ひきしめた
裸若衆に雪が舞う
祭だ 祭だ 祭だ 豊年祭り
土の匂いのしみこんだ
倅その手が宝物

秩父の山から里に降りてこられた年神様(としがみさま)は大宮、浦和を経由して、
今日、我が家の鏡餅の上に鎮座しおわします。
                         

2013年大晦日





       

在京近江人法話会へのお誘い

    

2013年(平成25年)8月1日  

                                      埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  

  昭和16年(1941年)4月、第2次世界大戦の始まる8ヶ月前に建立された滋賀県人の供養塔が、
72年ぶりに復活される事になりました。
  この7月10日に復活在京近江人法話会の第1回会合が72年前と同じ駒込大観音・光源寺本堂
で開きました。東京近在から18名の賛同者が駆けつけてくれました。  
  その席で、今まで復活に努力してこられた北里村(現近江八幡市)出身の大東明雄さんが会長に
選ばれ、「今後は春・秋のお彼岸の頃、有志で墓参して先人の労苦を偲び、今を感謝して集う」こと
を確認しあいました。  
  次回は下記の要領で開催します。是非ご参詣下さい。  
日時:  平成25年10月4日(金)午前11時光源寺集合  
場所:  東京都文京区向丘2−38−22 浄土宗光源寺
  東京メトロ南北線「本駒込駅」下車 徒歩4分
会費: 年会費1000円と会食費3,000円
申込:  料理を外注する都合上、必ず事前にお申込み下さい。
締切: 9月30日(月) 連絡先:全国滋賀県人会連合会事務局
電話: 03−3661−1180  Fax:03−3661−5058
通信先: 〒103−0004 東京都中央区東日本橋3−6−15偕成ビル6階全滋連
  (出来るだけ文書で御願いします)

10月4日の法話会スケジュール
 
@ 島田住職の法話と墓参 
A 北進近江商人追悼法要報告(9月19日〜20日北海道松前町専念寺墓参報告)
B 参加者全員の故郷(先人)への熱き思い披露
   以上



       

一歩前へ!

    

2013年(平成25年)7月1日  

                                      埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  

  今回の総会案内書と一緒に「「在京近江人法話会の復活のお知らせ」を同封しました。
唐突な案内で戸惑われた方も多かったかと思います。  
  昭和16年4月に東大の近くの光源寺に、左側面に「在京近江人法話会」、右側面に
「北里校友会東京支部」、正面に「供養塔」と刻まれた墓が建立されました。
北里とは野洲郡北里村(現在は近江八幡市)のことです。私の叔父も北里の出身で
八商を出て上京し、東京で没しましたが、第2次世界大戦で東京が空襲で焼かれることが
分かったときに、重要な書類や資料を北里の実家に避難させていました。  
  2個の洋行カバンにぎっしり書類が詰まっていました。5,6年前に実家が建て替えをする
ときに発見され、その頃歴史の勉強をしていた従兄弟の私に転送されて来ました。
大正の初めから昭和18年までの記録が細かく記載されています。  
  この1ヶ月間、これらの書類に目を通している間にすっかり昭和一桁時代の人間に頭が
洗脳されてしまいました。開戦前夜の重苦しい空気や戦争に突入してからの慌ただしい
動きが伝わって来ました。  
  昭和12年に書かれた本の中に「在京近江人法話会の発会式」の記事を見つけました。
「準戦時状態とか物価暴騰と政界不安に伴う不安、焦燥の切迫した世相を緩和し、且つ
各人の心霊の救済をなさんものとして今回在京県人の同信者が期せずして結成せられて
時折の集いを為すことになった」と写真入で掲載されていました。13家族の写真と氏名が
載せてあり、実存の方1名、子息の方3名にお会いして当時の状況をお聞きしました。聞き
取りは、今が最後のチャンスです。  

  今年の本屋大賞第1位の「海賊と呼ばれた男」は出光佐三氏のドキュメンタリーです。
昭和28年が嫌というほど長く綴られています。今もイランは経済封鎖を受けていますが、
今から60年前も経済封鎖されているさなか、日章丸がイランから石油を運び出す話がリアル
に描かれています。出光興産は出勤簿なし、定年なし、首切り無しの大家族主義の会社でした。  

  今年に入ってアベノミクスとかで少し景気が上向いたように言われていますが、この20年間は
「失われた20年」と言われて来ました。 この3つの時代に共通しているのは、今日の梅雨空の
ような重々しさです。この重々しい空気を払拭するためには1人1人が1歩前に出ることしかない
ように思います。 1歩前に出るにはどちらの方向に出るか、それは歴史に学び、そこから先を読む
ことです。「先人の歩んだ道を求めるのではなく、先人の求めたところを求める」精神が大切です。
男性トイレの前にだけ「1歩前に」と書いてあるのは寂しい限りです。

 


       

七福神めぐり

   

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  


  まもなく正月を迎えます。今ではすっかりお正月に七福神めぐりをして福をもらう習わし
が定着しました。わが県人会でも新納探花会主宰が平成22年は隅田川七福神、23年は
向島七福神、24年は浅草七福神めぐりを案内してくれました。
極楽トンボの私は1度も参加していませんでした。
  そして25年の新春は加藤正子婦人部会事務局長の案内で川越の七福神めぐりをすること
になっています。これには参らないと罰が当たりそうで、万難を排して参加しようと思って
います。
  そこで、そもそも何で七福神なのか、調べてみました。六福神でも八福神でもよいではないか
とへそ曲がりに考えながら。
  七福神信仰は室町時代末期ごろ、京都で始まったそうです。室町末期といえば、応仁の
乱などの戦乱の時代です。昨年のように大地震、大干ばつがあって、武士のみならず、
庶民も疲弊しており、福の神を求める土壌があったようです。今の代表的仏教はみな
この頃に誕生しています。
  商業が形を持ち始めたのもこの頃で、庶民が個人の富を願うようになりました。最初は
恵比須さんと大黒さんだけでしたが、これだけでは寂しいので増員しました。
  関西では今でもニ神だけを祭る習慣があります。江戸では徳川家康の政治指南役、天海
僧正による、七福神信仰の奨励で盛んになったといわれています。
  恵比須は律義、大黒天は有徳、毘沙門は威光、弁財天は愛嬌、布袋は大量、福禄寿は
人望、寿老人は寿命を表しているとか。
  これら七徳によって天下を統一したので、皆も神仏の七徳を拝むように、という訳です。
いじめる者、いじめられる者には、いずれの徳にも当てはまりません。私の応援する
落語家の笑福亭松喬の一番弟子、三喬がこの前、柳家喬太郎との二人会で「七福神」を
演じていました。仏教経典の「七難即滅七福即生」から来ているそうですが、とにかく「笑う
門には福来る」なのです。もっと笑えば争いも自殺も無くなります。
  私は今、ある学会に「都市部における減災」について書いています。以前、母から「関東
大震災時、姉を抱いて家の前にある竹やぶに逃げ込んだ」という話を聞いていたので、
それが本当であるかどうかを確かめるために、先日滋賀県まで帰ってきました。
  関東大震災の発生14日前に誕生した姉は今も健在で、寺に嫁ぎ、毎朝5時と夕方5時に
鐘を撞いています。滋賀県でも大きく揺れて母から何回もその話を聞かされていたという
証言を得てきました。
  時々、夕方の5時前になると姉から携帯が入ります。「これから鐘つくさかい、聞いてや」。
「ゴーオーン、ゴーオーン、ゴーオーン」「ゴーオーン」

2012年 晦日

 
以前の挨拶文