令和4年7月1日

埼玉滋賀県人会会長辞任の辞

前埼玉滋賀県人会長 山田 正


  組織の長が長く留まるとマンネリや組織の腐敗に繋がるとして「会長の任期は3年、2期まで」という規定を規約に追加しました。今回はこの規定に従い、離任いたします。  
  そもそも県人会とはなんぞやと時々議論になることがあります。外から見れば故郷を遠く離れて「望郷の念」だけで集まっている集団と見られています。それも確かにありますが、第2の故郷である埼玉県も変わらず愛しています。  
  過去はもう過ぎたことなのでどうにも出来ません。未来はどうなるのか、誰にもわかりません。それよりも今日をいかに楽しく過ごすのかが問題です。  
  県人会はシニアの居場所作りから始めました。好きそうなクラブを出来るだけ沢山作り、同好会の集まりと8ブロックに分かれて地域単位で活動する事で面の広がりが出来ました。他の県人会ではこれを『埼玉方式』と呼んでくれています。  
  会報は22号が原稿が集まらず休刊になりましたが、ホームページは今井さんから福井さんに繋いで一度も欠けることなく毎月更新を続けています。  
  ペーパーレスの時代なので今後はホームページが中心になると思いますが、2つがあいまって県人会の足跡を記録してくれています。  
  中村新会長のもと、コロナ明けと梅雨明けしたので一斉に活動を始めて下さい。  
  長い間、沢山の人に助けられて無事、次にバトンをつなげることが出来ました。本当にありがとう御座いました。先ずは電波を借りて御礼申し上げます。

中村  文雄  新滋賀県人会会長の挨拶文はこちらからご覧下さい




2022(令和4)年元旦

ミミズのたわごと

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  昨年の秋に非常事態宣言が解除され、やっと晴れ間が見えたかと思いきや、オミクロンなどという得体の知れないウイルスが出てきて、折角出てきた太陽が引っ込んでしまいました。  
  昨年は野外なのでゴルフ会は開催されました。麻雀会は換気と人数制限をして開催していました。第92回目の「探花会」は11月27日に大田黒公園で開催されました。 集まったのは新納部会長と私の2名でした。早く見終えたので部会長にお願いして、芦花公園駅から15分の所にある蘆花恒春園に同行してもらいました。  
  ここは徳富蘆花が明治40年に東京の青山から千歳村粕谷に転居して晩年の20年間を過ごした場所です。没後東京市に寄贈され、今も蘆花旧邸や記念館が設置されて都民の憩いの場になっています。  
  そこでの生活を随筆にしたのが「みみずのたはこと」です。その随筆によると青山にいるときのお手伝いさんが彦根の出身で「彦根は良い所だ」と聞いていて転居先の候補にもなっていました。もしそれが実現していれば近江鉄道のどこかの駅に「蘆花公園駅」 が誕生していたかも知れません。  
  記念館に入るとその当時使用していた農具が展示されています。ジャバラ式の噴霧器などハイカラな農具が陳列されていました。自ら自分のことを「美的百姓」と自嘲していただけのことはあります。まだ京王線が開通する前の話なので、都内というのは青山当りのことをいい、新宿以西は郊外のど田舎でした。わずか110年ほど前の話です。  
  私の借りている畑は浦和の見沼田んぼで東京郊外のど田舎です、民家等ありません。40年ほど前からそこで俄か百姓をしています。昨年から中古の耕うん機を買い少し楽になりました。少子高齢化と百姓離れと巣篭もりで空き地が増え続けています。今月から4箇所目の畑を借りる事にしました。地続きで借りれば効率的ですが、借りる箇所が多くなれば地主や小作人の数が多くなり、交流の輪が広くなって楽しみも増えます。  
  昨日、日野出身の福井HP編集長に「日野菜は要らんかね?」と電話をしたら「今、餅搗いているところ、来てもらえればあげますよ」と言われ、早速貰いに行きました。まさに『棚から牡丹餅』でした。
  ただ、1つだけ心配なことがあります。今まではスコップで耕していたので全てを耕し終えるのに1週間も掛かってたのが、今では30分ほどで終わります。産業革命前夜とその後ほどの違いがあります。  
  蘆花は「ミミズのたわごと」を聞きました。私は耕うん機の羽根でミミズのミンチを作る事になり、これからは「ミミズの悲鳴」を聞くことになります。




2021(令和3)年元旦

自 然 に 帰 れ

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  この言葉は1712年生まれのルソーが言った言葉である。 1755年に10万人の死傷者を出すリスボン大地震が発生し、ヨーロッパに衝撃が広まった。ルソーは地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示した。文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすと共に、自然と調和する事の必要性を説いた。  
  1778年66歳で亡くなり、その11年後にフランス革命が始まる。  
  私が上京した翌年(1964年)に東京の人口は1000万人を突破、そして昨年の4月に1400万人を越えた。この半世紀で400万人も増えた事になる。 天気予報の直前にスカイツリーからの東京の全景が放映されることが多いが、私はあの場面を見るたびに「もし直下型地震が起きたらこの家はどうなるのか?」「荒川が氾濫したらどうなるのか?」と心配で見ておれない。流石にこの半年間は東京近県に移住する人が多く、少し人口が減っているようではあるが、都心に近いタワーマンションの売れ行きが好調で、中古マンションでも新築時の倍の価格で売り買いされているという。 もうそこには自然は全く駆逐され、農業など雲の上の話になってしまった。  
  首都だけが栄え、地方が衰弱していく図は今に始まったわけではなく、世界の歴史を見ても、人口がいびつになると戦争と疫病がはやり、人口調整を繰り返してきた。  
  たとえこの新型コロナが収束しても、自然界には最大82万種類のヒトに感染する可能性を持つ未知のウイルスが存在するとの分析結果を最近世界の科学者が発表した。  
  森林伐採をはじめ土地利用の変化や食用や薬用のための取引・消費などによって、野生動物や家畜、ヒトの間で接触が増えているのが原因だという。  
1年に及ぶ自粛生活を強いられてきて、「この先どうなるのか?」、「いつまで続くのか?」「自分が今している日常生活がこのままでよいのか?」、「国や年金がこのまま持つのか?」、「自分はもういいが、子供達はどうなるのだろうか?」と精神的ストレスは深まるばかりである。それは今行っている自分の行動がなんらこれらの問題解決につながっていないことを知って、益々不安が押し寄せて来るように思う。  
  農作業は辛い場面もあるが、苦労の代償として食べ物を提供してくれる。家族では食べきれないくらいの恵みを与えてくれる。生ごみは全て畑に戻して循環型農業をしているので資金ショウトして頓挫することも無い。マルチも行わない。草を生やして草取りをしたいから。防寒には古畳を解体して藁を敷いてやりタマネギ、ニンニイク、ラッキョウ、キヌサヤたちは厚手の布団をかぶって大喜び。  
  化成肥料は使わない。金がかかるのとメタボの野菜を食べたくないから。  
  こんな我がままを何十年と続けて来ても、誰からも批難を受けないのが嬉しい。  
  埼玉在住の皆さん!、1月の市報の市民農園募集の欄を見て申し込みましょう。!



2020年7月1日

[書面表決書]提出の中間報告

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  新型コロナウイルスの感染防止のため、「三密」が新たな生活様式になりました。
そもそも県人会は同県人が集まってワイワイ・がやがや話すのが目的でしたが、それを禁じられてはお手上げです。3月以降のイベントはすべて中止になりました。
  ブロックや部会のイベントは「国の外出自粛要請に従い、中止します」で許されますが、総会をどうするか、次号の会報はどうするか、それをどう案内するかについては 会長1人の独断では出来ません。
  まず、どこかに集まって方向性だけでも出さないといけません。
① 集まる場所がない
② 10人の理事と3人の会長補佐役とどう連絡を取り合うか?
③ 会報は何のために発行しているのか?
という根源的な問題と直面せざるを得ませんでした。  
  第1回の編集会議を4月4日に私の畑の掘建て小屋で行いました。夏場の日除けに 畑仲間が手作りで建てた四面吹き抜けの小屋です。三密は免れました。
  しかし、1人だけ花粉症の人がいて次回から同席できなくなりました。
第2回は5月6日、第3回5月21日で今回の会報崩れの報告書送付となりました。
6月7日に南浦和事務所で山下・池田両監査役から監査を受けて、6月14日の臨時理事会に漕ぎ着けました。理事会はパルコ9階で8人の理事と1人の会長補佐役が集まり、総会が開けない代わりに標題の書面による決済を求める事を決めました。  
  書面による決済請求はもとより初めてのことであり、自分で切手を貼ってまで回答をくれる人は少ないと予想していましたが、6月30日現在71名の方から返事を頂き、全員が賛成に〇をしてくれていました。(締切期限7月10日)(切手無し2名あり)  
  ご意見の欄に記載されていた2人の言葉を以下に紹介します。
A氏「近江の資料をお送り頂き、ありがとうございます。今回の『湖国の文化』は近江の歴史に興味が湧いてきた私にはとても嬉しい本でした。『おうみの風』に出ていた酒屋、山路さんは妻の母の実家です。とても懐かしく妻との話題が弾みました。」
B氏「京都新聞の記事も感慨深く読みました。江州人として誇りに思います」 その他5、6人の方から暖かい添え書きを頂たき、救われました。  
  ただ、お一人だけ、「85歳になり退会します」という寂しい連絡もありました。
もう1人は、あるブロック長から「手紙が返送されて来る、亡くなったみたい」という方がいました。単身で住んでおられたので生死の連絡が取れなくなっていたのです。
そこで皆さんにお願いがあります。生きている限り、必ず単身者になります。だから遺言書には必ず、「滋賀県人会には死亡連絡をするように」と書いておいて下さい。
上野久男さんが亡くなった時はご長男から「父の遺言だったので」と電話がありました。



2020年1月1日

滋賀県と埼玉県の魅力度は?(その2)

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  昨年の新年挨拶の続きである。民間のシンクタンク「ブランド研究所」が昨年11月、 2019年の「都道府県魅力度ランキング」を発表した。岡山県と滋賀県は共に39位、 鳥取県と埼玉県は共に41位、滋賀県と埼玉県は背中合わせで最下位から6位・7位を争っている。万年最下位の茨城県は「イメージを著しく損なう」と大井川知事が憤慨している。 ふるさと納税や観光客誘致に影響するからである。  
  魅力度は5段階で「とても魅力的」と「やや魅力的」以外は加点されない。 調査はインターネットで行われ、今回の有効回答数は3万1369人だった。  
  滋賀県は2017年は28位、2018年38位、2019年39位と後退続きである。三日月知事としても「ここ滋賀」を作ったり、県からの発信を大幅に増やしているのに憤懣やるかたない思いではないか。茨城県では早速茨城大学で、この問題のシンポジウムが開催されたという。  
  そこで自分なりに滋賀県の魅力について整理してみた。 ① 昨年12月4日アフガニスタンで中村哲医師が銃弾に倒れた。25年前にアフガニスタンに赴き、「水があれば多くの病気と帰還難民問題が解決できる」と用水路開発に尽力されてきた。中村医師はクリスチャンであったが座右の銘は「照一隅」であった。 比叡山に日本仏教の元になる天台宗を興した最澄の「一隅を照らす、これ国宝なり」から取られた言葉である。
  その比叡山は滋賀県、最澄は滋賀県人、そこから俯瞰する琵琶湖は440万年前から存在して、世界でも古代湖としてはバイカル湖と1,2を競っている。 ② 昨年12月10日吉野彰氏がノーベル化学賞を受賞した。リチュームイオン電池が地球温暖化問題の解決につながる偉業が評価された。  
  先月、氏を語るブログに氏の祖先は大津の近江商人であったことが記されていた。 社会が求めるものを見抜く眼力、自分だけでなく他者を豊かにする三方よしの精神、 自分の研究が必要とされる未来が来るかどうかの先読み、腰の低そうなところがあっても 決めた事を絶対に引かないところが偉業につながり、偉業をなし遂げたのは「近江商人魂」だという。 ③ 大河ドラマの第1回は「花の生涯」、司馬遼太郎の「街道をゆく」も滋賀県から始まり、朝ドラでは今、「スカーレット」で信楽を舞台にした初の女性陶芸家の話が放映されている。初めての話は日本のへそと呼ばれる滋賀県の話から始まる。 もっと滋賀県のことを知りたい方は季刊発行の『湖国と文化』誌の購読をお勧めしたい。 年間購読料2800円(送料込み)公財びわ湖芸術文化財団 077-523-7146 まず我々から湖国のことをもっと勉強する事から始めたい。  
  埼玉県については次回の機会に書きたい。



2019年7月1日

県人会は居場所作りになりうるか?

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  「三つ子の魂、百までも」という諺があるように幼少の頃に育った地の習慣や体験や景色は何時までも忘れない。さっき食べた食事のメニューさえ思い出せない人が小学生時代のことを鮮明に覚えている事が多い。  
この5月の長浜視察旅行の帰りに施設に入っている95歳の長兄を見舞った。耳はほとんど聞こえないのでコミュニケーションが成立しないけれども、青年時代に長命寺から施設の近くを流れる日野川の河口まで泳いだ事を1時間ほど滔滔と語ってくれた。死ぬ思いをしたそうなので、なおさら鮮明に焼きついているのであろう。  
  国は来春に新オレンジプランを発表するという。今まで認知症の予防と改善をうたって来たが改善が見られず、『共生』を前面に出して居場所作りの重要性を打ち出すようだ。  
  90歳代になると10人中7人が認知症で、正常な人が3人だという。90歳代になると認知症の人が平常であることになり、年下の者は年配者への対応を変えていく必要に迫られる。  
長浜旅行でも米原11時の集合に来ない人が1人いた。携帯がつながらず、恐る恐る自宅の固定電話に電話をすると本人が出た。ヘリコプターでもない限り合流はできない。やはり今後は約束時間が守りずらい会員には前日確認電話を入れるようにしたい。  
  そういう私も今月79歳の誕生日を迎える。何時からまだら呆けが始まるか、分からない。難聴や糖尿病が認知症のきっかけになるといわれているが、私は「感性」の衰えが一番のきっかけになると考えている。花の綺麗さにも料理の美味しさにも心を動かさなくなる事を恐れる。  
  この6月16日に探花会で久喜市の菖蒲園に行った。第86回の「花しょうぶとラベンダー」を見る会ではあったが、邸内に本多静六記念館があり、立寄った。  
本多静六は埼玉県が生んだ3大偉人の一人である。渋沢栄一とも親交が深かった。日比谷公園、明治神宮の森、大宮公園など数百の公園の設計に関わった造林学・造園学のパイオニアである。  
  造園に当たっては、逍遥区・休養区のほか必ず運動区・教化区を設け、各区にかなった諸施設を必要とすると説いた。日比谷公園内にはレストランも図書館もテニスコートも野外音楽堂もある。「幸せに人生を生きるため、心身の健康増進に貢献する場」の提供を造園哲学とした。公園は単なる物見遊山や癒しの場ではなく、心身の健康を増進する場だという。  
  当会が物見遊山の会になっていないか? 居場所とは幼少の頃からの話の通じ合う友がいて、自分が主役を演じる事ができる場のことである。

 
日比谷公園 と 公園内にある「首掛けのイチョウ」 秩父の「芝桜公園」



都道府県別の魅力度ランキング滋賀県と埼玉県は?


埼玉滋賀県人会会長 山田 正

  

  10月16日に品川プリンスホテルで「近江ゆかりの会」が開かれ、357名の近江人が一堂に会しました。 三日月知事もつくば市で開催中の「第17回世界湖沼会議」に出席の帰りに参加され開口一番、「滋賀県 の魅力度が下がり、今夜は皆さんからお叱りを受けそうですが?」との枕言葉がありました。 民間シンクタンク「ブランド総合研究所」が前日に都道府県別魅力度アンケート結果の発表をして、滋賀県 は前回の28位から38位に後退していたことを知事が詫びたのです。
  たかがイメージだとはいえ、「ふるさと納税」や「インバウンド(訪日外国人旅行客)」の増減等に直結していて、 あなどれないのです。  
  知事の参加された「第17回世界湖沼会議」は今回50カ国から約4,000人が集まり、5日間にわたり、人間が 湖沼と共生し、将来にわたって生態系サービスを利用し続けられる方策について話し合われています。 そもそもこの会議は滋賀県の提唱で、34年前に始まった世界会議です。  
   41年前、琵琶湖に悪臭を放つ赤褐色のプランクトンが大量発生(淡水赤潮)。その原因の1つが合成洗剤に 含まれるリンであることがわかり、県民が主体となって天然油脂を主原料とした粉石鹸を使おうと「せっけん 運動」が始まります。休耕田に菜種の種をまいて菜種油の生産、廃油の回収・再製等、持続可能な循環型の 環境浄化の実績が「琵琶湖モデル」として世界に認知されるようになりました。  
  ベトナム北部にある「ハロン湾」が水質汚染で世界遺産の取り消しに直面して、いま「琵琶湖モデル」で滋賀県 が支援しています。貯水池の多い中国からも要請があるといいます。  
  埼玉県の魅力度は44位から43位に上がったものの最下位に近い。埼玉県は荒川・利根川2大河川や長瀞、 飯能の清流など水辺空間に恵まれています。県土に占める河川面積の割合は日本一で、荒川の鴻巣市と 対岸の吉見町との間の川幅は2,537メートルで日本一です。
  さいたま市にある見沼田圃、東京から20キロ圏に東京ドーム270個分の一大緑地が残されているのは奇跡 です。400年も前に関東郡代伊奈忠治(川口市赤山城跡)によって関東の大湿地帯を干拓して一大穀倉地帯 に変貌させ、今に繋がります。利根川から灌漑用として引いた見沼代用水沿いに20キロに渡る桜回廊は 日本一の長さ。これらは全て人間の手で作られたものです。  
  10代目伊奈忠宥は関東各地の農民にのらぼう菜の栽培を奨励。この野菜は生命力・繁殖力・滋養に優れ、 天明・天保の飢饉の時に領民を飢餓から救いました。  
  先日さいたま市役所の見沼田圃政策推進室を訪ねて見沼の見所を聞く一方で「のらぼう菜」を空き地にま 運動を提案してきました。食べてよし、菜の花を愛でてよし、搾取した菜種油は抗酸化物質を含み、がん予防 にもなる優れものです。来年の新年会には参加者全員に苗と種を持参しますので、空き地を菜の花で一杯に して下さい。  
  まず我々が自分の故郷と今の地に愛着を持ち、水害の少ない都市、水がきれいで菜の花が咲き誇る町をPR していきましょう。ローマと老婆は1日にしてならず。 


 


『民泊について考える』


    埼玉滋賀県人会会長 山田 正
               2018年7月1日

2018年6月15日に住宅宿泊事業法が施行されたのを受けて、この6月29日にお茶の水にある 明治大学グローバルフロントホールで表題のシンポジウムを開催した。200名収容のすり鉢型の ホールで、使用料は半日6万円もする会場である。100名ほどが集まってくれた。京都からこれに 参加するためだけに上京する人がいた。  
  私は『地域マネジメント学会』には埼玉滋賀県人会を立ち上げる前から所属していて、周りがやめ ていき、気が付いたら私が企画・事業委員長をさせられていた。  
  テーマも講師陣も集客も当日の運営も全て自分でやらないといけない。東京滋賀県人会の静永 会長は日中国交回復交渉のとき、田中角栄と周恩来・毛沢東の対談を撮影するクルーの隊長を 務めた人で、国交省には太いパイプをもっておられる。静永会長の尽力で観光庁観光産業課長の 基調講演講師がすんなりと決まる。  
  東京都大田区は2年半前から『特区民泊』として先行しており、生活衛生課長にもその現状を パネラーとして発表してもらった。  
  民間からは、「不動産経済研究所」社長と「マンション管理研究所」代表にもパネラーとして参加し てもらう。  
  4時間の時間内で4人の講演をいただき、会場の質問を受けて、受講者にどんな問題点があるの かを感じてもらうのは至難のわざである。私の責任は時間管理で講師に持ち時間をきっちり守らせ ることである。「あと5分」、「あと2分」のビラを見せるのは嫌な役ではあるが、お陰で1分もたがわ ず、予定終了時間に終えることができた。  
  「民泊」は外国人だけでなく、日本人も使用できる。旅行だけでなく長期入院患者の外部宿泊訓練 やその家族の滞在拠点にも利用でき、社会的な機能としての役割も期待されている。  
  この学会のシンポジウムには埼玉県の上田知事にも2度講師として来場してもらっている。今回も 当会の16号の会報を送る封筒の中に新たな提案書を同封した。  
  その内容は愛知県知事が昭和53年から全国県人会組織を提案して、現在38の道県人会が 加入・参加して9月の第2土・日に「ふるさと全国県人会まつり」が開かれる。去年は名古屋市内の 会場に2日間で21万3000人が参加したという。当然名古屋滋賀県人会も参加している。長浜市 から地ビールや甲賀市から忍者が出て好評だった。  
  埼玉県側からすれば我々は外国人である。長野、新潟、山形からの流入者も多いはず。
  私は一度本物の秋田の「いもに」をイベント会場で味わってみたい。  
  埼玉県でもそんな企画を試みてもらいたいと知事に申し出たところ、埼玉県庁の観光課長から
「話が聞きたい」ということで7月9日に登庁することになった。申し出るのは3度目である。  
  今年は日本の『開国』からちょうど150年、開国を指揮した井伊直弼は反対派の浪士に暗殺され たが、井伊藩の藩校に学んだ者にとって、今回の民泊解禁は第2の開国で歓迎したい。150年前 に開国して日本は豊かにはなったが、心情的には外国人に対して今だ心を開いているとは思えな い。特に東南アジアの人たちには蔑視の差別意識がどこかにありそうである。やはりなくなるのに 100年はかかりそうである。  
  民泊新法は空き家対策ではなく、地域が見知らぬ人を受け入れて同化していく戦略である。
埼玉滋賀県人会の将来も、同じ路線の中にあるように思える。




渋沢栄一とクリスマス・キャロル


埼玉滋賀県人会会長 山田 正
        2018年1月1日

昨年12月3日に当会の「探花会」で東京・王子にある飛鳥山公園の紅葉狩りに出かけた。
ついでに邸内にある渋沢栄一史料館に寄る。会でここを訪れるのは3度目である。
 昨年は氏がパリ万博へ幕府代表員に随行して150年にあたり、いろいろと記念行事が 開かれている。特に注目されたのは1924年排日移民法が出来て反日感情が高まる中、 「世界の平和は子供から」というスローガンで人形計画がアメリカの牧師により起こり、 日本側から渋沢栄一がその仲介役をして1927年(昭和2年)約12000体の「青い目の 人形」が贈られてきたことだ。彼は日本で養育院も運営していて民間レベルの草の根 国際交流のシンボルとした。その人形が展示されている。  
12月17日新百合ヶ丘の川崎市アートセンターで「クリスマス・キャロル」の観劇会があった。
この話しは1843年にCディケンズが出版し、村岡花子が翻訳したもの。
金融業(金貸し業)のスクルージは金以外は信じない守銭奴で皆からの嫌われ者である。
 イブに前任も同じく守銭奴だった亡霊が出て、今は鎖に繋がれて苦しんでいることを
告げて生き方の変更を迫る。スクルージが不幸にさせた人間をいやおう無く見せ付けられ
て、明朝改心するという話である。  
その亡霊の役に当会員の山田誠浩氏が登場。顔には真っ白のどうらんが塗られ、頭髪は
逆巻き、足には鎖で重い石がそなえつけられているといったすさまじい姿にびっくり。
普段はおとなしい紳士然としておられるので、役柄とはいえ、その変身振りにぎょっとさせら れた。  
クリスマスの日、スクルージは社員の給料を上げたり、教会に寄付をしたりして皆の中に
溶け込んでいき、歓迎される。金をためる喜びから皆と交流しながら民族の一員としての
喜びを共有し、幸せを発見する物語である。  
話は最初に戻って渋沢栄一は1840年生まれ(私と100年違い)でパリ万博に随行した
ときは27歳の気鋭であった。パリで1年半の間、下水道の中をくまなく歩いたり、金融の
仕組みの勉強をしたという。その時の24年前に出版された「クリスマス・キャロル」の本
を彼はきっと読んでいたはずである。  
後に彼が出版した「論語と算盤」は企業の倫理を説いている。「偉人とその母」の項に
「女子に対する旧来の侮蔑的観念を除去し、女子も男子同様国民としての才能智徳を
与え、共に相助けて事を為さしめたならば、従来5千万人の国民中2千500万人しか
用をなさなかった者がさらに2千500万人を活用せしめる事となるでは無いか、これ大い
に婦人教育を興さねばならぬという根源論である」と結んでいる。90年前に書いた本で
ある。2018年1月13日と20日「論語と算盤」セミナーが史料館である。



「 土 に 生 き る 」


埼玉滋賀県人会会長 山田 正
       平成29年7月13日

今年の梅雨は雨が降らない。関東甲信の梅雨入り宣言は6月7日に発表されたが実際 に雨が降ったのは台風3号が少し雨を運んできただけ、その後もほとんど降らない。  
  気象予報士は1万人もいて「熱中症予防」や「紫外線対策」、「洗濯情報」、挙句の果て には「大きい傘持参がよい」とか「明日着ていく服装のアドバイス」まで至れりつくせりで ある。肝腎のいつ雨が降るのか?、節水の呼びかけはしなくて良いのか?梅雨明けは いつなのか?といった話はまったく出てこない。  
  53年前の東京オリンピックの年に雨が降らず、水不足で苦しんだ経験があるから渇水が 気になる。今年、台風が来なければ同じことが起こりそうなのに誰も騒がない。
蛇口をひねれば水が勢いよく水が出てくるものと信じて疑わない。  
  6月30日に明治大学で「地域マネジメント学会」が開かれた。そのときの企画・実行
を私がまかされた。テーマから講師の選定、2度の講師との打ち合わせ、動員まで全て 1人で行った。基調講演をしてもらったのが、私と同姓同名の中央大学理工学部都市 環境学科の教授である。冒頭の挨拶の中で「土木とは濁音できれいではないので都市 環境という名前にした」ということと「「いまどきの関東出身の学生には精気がない」との 指摘があった。  
  私も数年前から都内3箇所と浦和で毎月1回「プランターでの野菜つくり教室」を開いて いる。多くの人が無農薬・無化学肥料を望みながら自分で作ろうとしない。
その理由を聞いてみると
① 虫がいや
② 水やリが面倒
③ 草取りがいや(腰が痛くて屈めない)
が3大理由である。
① 今ヒアリという毒蟻で港の集荷場は大騒ぎであるが、オクラの木には蟻がいっぱい
  いて、これに刺されたら1ヶ月は痛む。毒虫はいっぱいいる。
②畑の水やりは両手にバケツを持ち50メートルも離れた場所から10回以上毎日水を 運ぶ。3ヵ月後の成果物が楽しみなので苦にはならないし、足腰が鍛えられる。
③ 取りほどすぐに成果の現れるものはない。きれいなったうえに達成感が味わえる。
  先月には現地体験会と称して都内から10人がわが農園にきてジャガイモ堀をした。
驚いたことには男性までが作業前に手袋をはめたことである。「土は汚いもの」という 観念があるのか、「病原菌が入る」とでも思うのか。素手だから土の感触がわかり、 土中にジャガイモと指先が衝突したときに感動が伝わるのにそれらを放棄している。
山田教授が今どきの学生を嘆いたけれども、本当はこの親たちが元凶ではないか。  
  今日、事務所裏の畑のジャガイモ堀を1人の女性会員と隣の奥さんの3人で行った。
まず全体の草をとり、ジャガイモを掘り出した跡に石灰と肥料を蒔いて再度耕した。
「この跡に何を作るのですか?」という質問が出た。「近江原産の日野菜と聖護院蕪 を作る」と言ったら「そのとき教えて下さい、手伝いに来ますから」と。
  その日の夕方に行った理事会の終了時にある理事から「日野菜の種は何処で売って
るの?」と質問された。土に生きる楽しさを知ってくれる人はポツリポツリと増えている ことを実感してうれしい1日だった。



10周年記念行事実行裏話


埼玉滋賀県人会会長 山田 正
        平成29年1月元旦

① 2016年11月23日 近江商人道研究会主催 「商道一筋268年」
   講師 矢尾直秀 会員  参加者38名(懇親会参加者19名)
講師には懇親会参加を願うため一泊してもらう資料として使用した「近江商人の理念と商法」「三方よし第41号」は彦根に拠点 を置くNPO法人三方よし研究所の厚意で無償配布
秩父市上町(かみまち)の町会費という公金を現在も預かっていて、地域と共生し ているという。

② 12月8日、会報第14号発行。発送には10人の助っ人が来てくれて、事務 所は人でいっぱい。普段は24ページ仕立てなのに、記年号ということで60ペー ジ 仕立てに増ページし、300冊作成。
会報委員会は8回開かれ、毎回修正されたゲラ紙が全員に配られ、チェック。その ため使用した裏紙再生紙は約3千枚。印刷だけは外注したが構成・写真・割付けは すべて手作りである。何よりの自慢は43名の投稿者がいて、全員参加型の会報に 仕立てたこと。
正確をきすための確認や問合せにかかった通信費の総額は計算するのも怖いほど。
各自に電話代、郵送代の自己負担を強いたことをお詫びしたい。

③ 同日に発行された「Hp(ホームページ)会員投稿集」
毎月月初に更改されてる会員の投稿文を5年間分まとめて1冊にした。
偶然、会報と同じ60ページ仕立てとなる。A44枚をA3用紙の表・裏に収めるの
に神経を使う。4人で5時間かけてやっと完成。A3用紙を3千枚購入して200
冊ぴったり。1枚の無駄紙も出さなかった。ホッチギスで中綴じの作業は掌が痛く
なる。4人で手分けして事務所まで運んだが、手が切れそうに重かった。

④ 名簿発行
事務局長から何度も督促して会員の9割ほどが提出。何人かは無提出のまま発行。
今は個人情報管理が厳しい。公開することを前提に許容の範囲内で記入願った。
しかし、会員同士が親しくなるためには名簿が必須である。名簿を見て交流の深ま
ることを願う。5年ぶりの名簿発行である。
ちなみに東京滋賀県人の会員名簿は平成4年発行が最後で、260ページもある。
15人×260=約3900人。現在の総会や新年会の参加者は当会より少ない。

⑤ 次回近江商人道研究会
予定表では平成29年3月23日と発表していたが、会場がとれず、3月20日
(月・祝日)に変更。講師は株式会社ニチリョク代表取締役社長、寺村久義氏に
決定。今月22日が創立50周年記念日。その日に合わせて「人生はドラマなり」 
を自費出版。新年会に配布し、これを当日のテキストにして波乱万丈の人生を聞 く。

なぜこれまでして記念行事にこだわるのか。それは竹のように節(ふし)をつける
ためである。最近流行の皇帝ダリアは1年で5メートル以上の大木に育つが、節が  
ないため、霜に当たるとひとたまりもなく枯れてしまう。  
組織を将来に向けて続行させるためには多少の犠牲を払っても節をつけておか
ないと簡単に後戻りしてしまうことが多い。今年の沢山のイベント開催は、会を後
戻りさせないための滑り止め活動でもあると言える。                       
お寺の普請の寄付みたいに「1口1000円2口以上」と年始にお願いしました。 
まだ30名ほどの会員に協賛いただいていないので、上記のような趣旨に賛同して 
いただき、ご協力をお願いします。


気象と私


埼玉滋賀県人会会長 山田 正


  小学5年生の時から気象観測を始めた。気温、湿度、風向、風力、雲量、雲形、雨量 とミニ測候所並である。6年生の遠足のとき、夕方の測定のために途中から帰らせてく れと申出た。担任は「誰かに代わってもらえないの?」と止めたが、「自分が好きでや っていることなので他人には頼めない」と言って帰らせてもらった記憶がある。  
  中学生になった時、中学の教員をしていた兄が「こんな下らないことをしている暇が
あったら英語の単語の一つでも覚えろ」と言って百葉箱を壊そうとした。それを見た母 が「正がやりたくてやっていることだからやらせなさい」と取なしてくれた。  
  ちょうど私もあまり意味がなさそうで止めようかと考えていたときだったが、この件 があって止められなくなった。3年生のとき、科学発表会があり、「近江の気象と健康 について」を発表したら、県の大会にまで上がり、3位の賞状をもらった。「湿度が他 県より高く、その結果滋賀県には結核患者が多い」と事実に基いてまとめたのがよかっ たらしい。近くにヴォーリスさんが作った結核専門病院があったほどである。  
  高校生のときは「物象部」(物理・気象部)に所属した。夜には天体観察があり、部 室に泊り込んだこともあった。気象とは水蒸気の仕業で変化するものであることを学ぶ。  
  大学時代は「ワンダーフォーゲル部」に所属して野山をさまよっていた。夏山合宿は 1週間も山中に居ることもあった。1日3回の短波放送を聞き、天気図を描けるのは私 だけだったので、翌日前進するか、留まるか(沈殿するといっていた)、後退するかの 権限が与えられていた。  
  就職はゆえあって全く自然科学とは正反対の「人の気性」の観察を業とする仕事に就 いた。それでも気象に憧れる気持ちは断ちがたく、平成6年8月に行なわれた第1回気 象予報士試験に挑戦した。今をときめく森田正光さんと共に受験し、共に落ちた。森田 さんは次回合格し、私は午前中の知識試験はともかく、午後の3時間にわたる5000 メートル上空のレーダー解析の試験は雲をつかむ話で手も足も出なかった。54歳の ときである。
  それから20数年後、再度の挑戦の機会が巡ってきた。定年直前に入会した学会も長 く居る間に企画委員長になり、今年のシンポジュームを企画することになった。たまた ま高校時代の同級生が気象庁に勤務し、札幌気象台長や本部の予報課長を経験している 友人が居た。彼を基調講演のパネラーに据え、3人の大学教授をミニパネラーに依頼した。
  三上岳彦教授は東大出の地球温暖化についての権威である。八王子の山中にある研究 室を尋ね、46億年前からの気温上昇の図や東京の夜間温度の地区別変遷図など膨大な 観測資料を拝見してきた。祖父が滋賀県・三上山の麓の出身で、先生は現在大宮に住ん でいることを聞いて即座に埼玉滋賀県人会への入会を勧めてきた。
  森永先生は南極大陸観測隊の女性第1号。家族ずれでモンゴルに行き、2年間、凍土 の研究をされてきた人である。200名以上の学生に気象に関する意識調査をする約束< をしてもらう。この方は前川副会長の紹介で出演が決まった。
  藤部先生とは都内の気象学会開催場でお会いした。気象学会員は4000人もいて、
学会も3日間にわたって開催されていた。テレビの全局で1日に200回以上天気予報 が放映されているそうだが、日本人は世界1気象に関心のある人種だといわれている由 縁である。
  母のお節介が今の晴れ舞台に繋がった。10年日誌も今、3冊目である。3箇所借りて 百姓をやっているが、農事日誌もつけている。必ず冒頭に天気と風の具合を記している。
10年間を1日(じつ)の如く過ごせるのも、お天道様と共に歩んでいれば食い っぱぐれる ことの無いことを知れたのも気象に関心を持ったお陰である。
  2016年6月24日(金)13時30分から17時20分のシンポジュームは私にとって最後の 晴れ舞台となるかもしれない。チラシを添付したので、心ある方には是非覗いてもらいたい。



県人会の縁

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

折角、竹本会員所有の事務所をお借りしておきながらあまり利用がされていないので、 この6月から当番制で毎週木曜日朝10時~16時まで誰かが開けることにした。
 女子会の麻雀会が毎月第4木曜日に使用しているので、福井会員が音頭をとって男も 麻雀を始めることにして6月18日(木)に4人の男が事務所に集まった。
 ポンだのチイだの言い合っているうちに1人の男が「この7月11日の総会がわしの 誕生日や、皆に祝ってもろて幸せ者や」と言った。すると2人目の男が「わしの誕生日 はその4日後や」と言った。そしてもっと驚いたのは3人目が「俺はその4日後や」と いう。4人目の私は言えなくなってしまった。私の誕生日はその4日後だったのだ。
 しかも3人は昭和15年(皇紀2600年)の生まれである。福井会員が皆の誕生日 を知った上で召集した訳ではないので、全くの偶然である。
(実名を挙げた方がリアルなのだけれども、もしATMの暗証番号などに生年月日を使 っている危険があるので、氏名は伏したが、これは実話である)
 しかし、こんな偶然などがあるのだろうか?血液型や占星術や手相などを全く信じな い私は、これが偶然だとは思えず、色々推理してみた。以下その根拠付けである。
 現在132人の会員がいる。3日に一回誰かが誕生日を迎えている勘定になるので、
13日間に4人が誕生日を迎えることにはなんら不思議はない。ただ、無作為に集まっ た4人が同じ誕生月であったという偶然はどう説明したらよいのだろうか?
 そこで昔から「夏子は育つ」という諺があったことを思い出す。寒い冬に生まれると 乳幼児は風邪や肺炎で死亡の危険がある。しかし、夏場なら裸で転がしておいても、蚊 に喰われる事はあっても命に関わる危険はない。親が緊張していない分、のびのびと陽 気に育つのである。
 一方3月生まれの人は、小学校に入学するとき11ヶ月遅れなのに一斉に同じスタート をさせられる。6歳の頃の1年間の差は大きい。
昔「3月生まれ」という映画もあったが、3月生まれの人は自分を守るためにも背伸び をしたり、強がりを言ったり、時にはハッタリをかますことも必要になる。いわゆる 早熟タイプの人が多く見かけられる理由である。
 それに比べて7月生まれは年央でのんびり育ち、しかもお祭り好きである。夏が実家 みたいなものだから、決して暑い夏を嫌だとは言わない。ちょっと軽薄な所もあるが、 初めての誘いにもホイホイと出かけて行くタイプが多い。性格は変えられるが気質は変 わらない。一度、「7月生まれ全員集合!」して確かめ合いたいと思う。
「夏蚕(なつご)は育つ」という言葉もある。夏に卵からかえった蚕はよく育ち,大きな 繭を作るという。大暑の日に40歳で私を生んでくれた母に改めて感謝したい。


女子会の発足を祝す

埼玉滋賀県人会会長 山田 正

 今年の2月24日に浦和パルコに女性会員20名が集まり、女子会として「短歌」の 会、「手芸」の会、「麻雀」の会の発足が決まったようである。その辺の経緯については 毎月、月初の1日にHP更新をしている6月1日付け下田道子会員投稿に詳しく書かれ ているので読み直していただきたい。初めて経験した麻雀の感動を、ポンだのチィだの 擬音を交えた臨場感あふれる面白い文章で綴られていて、、思わず噴出してしまう箇所 が何箇所もあった。
 もともと麻雀の会は創設当時から計画があって、橿原隆会員がルール作りや雀荘の 予約までしてくれたことがあったけれども、雀荘を貸切にするためには最低3組が必要と いう条件が満たせず、そのままになっていた。
 今回勇気ある女性陣が橿原会員を拉致し、月1回の開催日程をもう既に12月まで決 めてしまった。哀れにもルールをマスターした暁には、講師をポイするという。蟷螂の 世界を髣髴させる過激な発言である。
 下田さんは私に言った。「会長といえども女子会には入れませんよ、どうしてもという ならスカートをはいて来なさい」と言われてしまった。

 もともと麻雀は中国人が考え出した遊びである。尖閣問題に関連してか、最近の日本 では中国(人)を見下したような表現をする人がいるが、こと麻雀のルールを考案した中 国人の頭脳の明晰さには敬服せざるを得ない。上がり方は100通り位かも知れないが、 4人でやるのだからその組み合わせは1万通りではすまない。遊びというより哲学の世 界である。恐らく一生打ち続けても同じ局面は2度と現れない。それほど奥が深く、興味 が尽きない。だから中国では国を傾けるということで、国禁になったほどである。
 ちょっと大きな話になりすぎたので女子会の話に戻すが、少し心配することが1つある。
橿原雇い人から「賭けない」「飲まない」「吸わない」の3大基本ルールは徹底されてい るようだが、いよいよ実戦が始まったら、時と場合によっては刃傷沙汰にならぬかと 心配する。
 どんな場面かというと麻雀は4人でするもの。4回に1回上がれれば良しとしなけれ ばならないのに、2回に1回、いや毎回上がらないと気のすまない人が出たりする。
自分の手作りばかりを考えていてはいけない。3人の捨てた牌を見て相手がどんな手を 作っているか想像しなくてはいけない。捨て牌によっては自分の手を臨機応変に変える 必要がある。
 難しい手は点数も高い。簡単に出来る手は点数は低い。一生懸命高く、美しい芸術的 な手を作っているのに、一番簡単で一番安い手の「平和(ピンフ)のみ」で上がられてし まえば、競技はそこで終わるのである。そんなことが3度、4度と続いたときにあなたは 冷静でいられるのか?
東京都議会のセクハラ発言のあった直後なので、この発言も危険ではあるが、嫁姑の 関係が永遠であることを思えば、3人の姑や小姑をやりこめないと勝てない競技が果た して「ボケ防止のため」などとのんきなことを言っておれるのか、ストレス発散どころか、 ストレスを抱え込むことになりはしないかと心配である。
 下田会員は「チュンチュン・ピーチクパーチク雀の騒がしいこと」と自分達の初体験を 雀に例えて表現しているが、最初の「麻雀」の「麻」の字は麻薬の「麻」であることを お忘れなく。
ニコチン中毒になることを目的に煙草を吸い始める人がいないように、徹マンして朝帰 りするために麻雀を始める人はいない。
 そういう私も新婚時代に徹マン・朝帰りだけでなく、自宅にジャン友を連れ込んで新妻 に飲食の接待までさせていた。今から思えば身の毛のよだつ思いである。



まつり

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正

  2013年12月3日は日本三大美祭りの一つと言われる秩父の夜祭である。40数
年前、立川に住んでいて、新婚3ヶ月のときに車で秩父の夜祭に出かけた。新婦は飯能
にある正丸峠が車酔いで越えられず、仕方なく引き返した。
  翌日病院に行ったら「ご懐妊です」と言うことだった。それ以来、秩父の夜祭行きは
実現していない。当会の10周年には矢尾さんの力をお借りして、夜行バスのイベント
開催を提案したい。
  2013年12月10日は大宮・氷川神社の「大湯祭(だいとうさい)」である。
十日市(とうかまち)と呼ばれる市が盛大に立ち、この日は24時間賑わう。
  この氷川神社は2000年の歴史があり、氷川神社名の社は全国に280数社ある。
大宮はその中心で、「大いなる宮居」として大宮の地名がつけられたという。
  当会がいつもお世話になっている「清水園」は明治3年創業で氷川神社入り口に1万
坪の敷地を擁していた。初代・清水友吉氏は大宮駅前に開いたそば屋「東京庵」が清水
園の始まりで、その料理の美味しさが評判になり、一気に繁盛した。
「氷川神社で挙式して清水園で披露宴をする」というのがステータスで、若者の憧れで
あったという。西沢会員が清水園に勤務する関係で便宜を図ってもらっている。
  2013年12月12日は浦和の調(つき)神社のお祭りで、12日市(まち)の大
市が立って、数百の露天商が並んだ。
  古代に、貢物を納めるための倉庫が建てられた。貢物を運び入れるのに鳥居は邪魔に
なるので、この神社には鳥居がない。狛犬ではなく,兎が置かれている。「つき」とい
う名から兎になったのではないかと思われる。全国でも珍しい神社である。
  昔からツキを呼ぶ神社として、「孫の手」を少し大きくしたほどの熊手が縁起物とし
て神社で売られている。
  たまたま当日は会報8号の発行のために早朝から編集委員6名、助っ人4名が浦和
パルコに集まり、印刷・製本・発送業務をしていた。今井会員の段取りが良かったので
トラブルに巻き込まれることなく、早めに終了した。
  地元に住む福井会員の案内で祭り見物をする。会報発行と新年会案内状の発送のプレ
ッシャーから開放されて、みな童心に帰り、露天商を覗いて歩く。福井さんは1500
円の熊手を買った。毎年購入しているという。これで金をガッポ、ガッポとかき集める
のだそうだ。
  昨年、南ブロックの会合で山口会員から参加者全員に「これを財布に着けておけば必
ず金が溜まる」と言ってプレゼントされた金ぴかの打出の小槌も売られていた。いつも
つけていないとだめだと言われたが、いただいた人は今、金が溜まっているはず。
  2013年12月の大晦日、NHK紅白で北島三郎が「まつり」を歌って50年連続
出場で、後進に道を譲ることを宣言した。77歳。
  この秋、北進近江商人追悼法要で松前を訪問する途中、町役場の人が北島三郎の生
家を案内してくれた。八王子の御殿と違い、質素なたたずまいであった。
  北海道側最初の陸上駅、「知内(しりうち)」駅のある街が誕生の地である。
  「まつり」は、なかにし礼の作詞である。

男は祭りを そうさ
かついで生きてきた
山の神 海の神
今年も本当にありがとう
白い褌ひきしめた
裸若衆に雪が舞う
祭だ 祭だ 祭だ 豊年祭り
土の匂いのしみこんだ
倅その手が宝物

秩父の山から里に降りてこられた年神様(としがみさま)は大宮、浦和を経由して、
今日、我が家の鏡餅の上に鎮座しおわします。

2013年大晦日

       


在京近江人法話会へのお誘い

2013年(平成25年)8月1日  

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  

  昭和16年(1941年)4月、第2次世界大戦の始まる8ヶ月前に建立された滋賀県人の供養塔が、 72年ぶりに復活される事になりました。
  この7月10日に復活在京近江人法話会の第1回会合が72年前と同じ駒込大観音・光源寺本堂 で開きました。東京近在から18名の賛同者が駆けつけてくれました。  
  その席で、今まで復活に努力してこられた北里村(現近江八幡市)出身の大東明雄さんが会長に 選ばれ、「今後は春・秋のお彼岸の頃、有志で墓参して先人の労苦を偲び、今を感謝して集う」こと を確認しあいました。  
  次回は下記の要領で開催します。是非ご参詣下さい。  
日時:  平成25年10月4日(金)午前11時光源寺集合  
場所:  東京都文京区向丘2-38-22 浄土宗光源寺
  東京メトロ南北線「本駒込駅」下車 徒歩4分
会費: 年会費1000円と会食費3,000円
申込:  料理を外注する都合上、必ず事前にお申込み下さい。
締切: 9月30日(月) 連絡先:全国滋賀県人会連合会事務局
電話: 03-3661-1180  Fax:03-3661-5058
通信先: 〒103-0004 東京都中央区東日本橋3-6-15偕成ビル6階全滋連
  (出来るだけ文書で御願いします)

10月4日の法話会スケジュール
 
島田住職の法話と墓参 
北進近江商人追悼法要報告(9月19日~20日北海道松前町専念寺墓参報告)
参加者全員の故郷(先人)への熱き思い披露
   以上


       

一歩前へ!

    

2013年(平成25年)7月1日  

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  

                                      
  今回の総会案内書と一緒に「「在京近江人法話会の復活のお知らせ」を同封しました。
唐突な案内で戸惑われた方も多かったかと思います。  
  昭和16年4月に東大の近くの光源寺に、左側面に「在京近江人法話会」、右側面に
「北里校友会東京支部」、正面に「供養塔」と刻まれた墓が建立されました。
北里とは野洲郡北里村(現在は近江八幡市)のことです。私の叔父も北里の出身で
八商を出て上京し、東京で没しましたが、第2次世界大戦で東京が空襲で焼かれることが
分かったときに、重要な書類や資料を北里の実家に避難させていました。  
  2個の洋行カバンにぎっしり書類が詰まっていました。5,6年前に実家が建て替えをする
ときに発見され、その頃歴史の勉強をしていた従兄弟の私に転送されて来ました。
大正の初めから昭和18年までの記録が細かく記載されています。  
  この1ヶ月間、これらの書類に目を通している間にすっかり昭和一桁時代の人間に頭が
洗脳されてしまいました。開戦前夜の重苦しい空気や戦争に突入してからの慌ただしい
動きが伝わって来ました。  
  昭和12年に書かれた本の中に「在京近江人法話会の発会式」の記事を見つけました。
「準戦時状態とか物価暴騰と政界不安に伴う不安、焦燥の切迫した世相を緩和し、且つ
各人の心霊の救済をなさんものとして今回在京県人の同信者が期せずして結成せられて
時折の集いを為すことになった」と写真入で掲載されていました。13家族の写真と氏名が
載せてあり、実存の方1名、子息の方3名にお会いして当時の状況をお聞きしました。聞き
取りは、今が最後のチャンスです。  

  今年の本屋大賞第1位の「海賊と呼ばれた男」は出光佐三氏のドキュメンタリーです。
昭和28年が嫌というほど長く綴られています。今もイランは経済封鎖を受けていますが、
今から60年前も経済封鎖されているさなか、日章丸がイランから石油を運び出す話がリアル
に描かれています。出光興産は出勤簿なし、定年なし、首切り無しの大家族主義の会社でした。  

  今年に入ってアベノミクスとかで少し景気が上向いたように言われていますが、この20年間は
「失われた20年」と言われて来ました。 この3つの時代に共通しているのは、今日の梅雨空の
ような重々しさです。この重々しい空気を払拭するためには1人1人が1歩前に出ることしかない
ように思います。 1歩前に出るにはどちらの方向に出るか、それは歴史に学び、そこから先を読む
ことです。「先人の歩んだ道を求めるのではなく、先人の求めたところを求める」精神が大切です。
男性トイレの前にだけ「1歩前に」と書いてあるのは寂しい限りです。
 

       

七福神めぐり

   

埼玉滋賀県人会 会長 山田 正  


  まもなく正月を迎えます。今ではすっかりお正月に七福神めぐりをして福をもらう習わし
が定着しました。わが県人会でも新納探花会主宰が平成22年は隅田川七福神、23年は
向島七福神、24年は浅草七福神めぐりを案内してくれました。
極楽トンボの私は1度も参加していませんでした。
  そして25年の新春は加藤正子婦人部会事務局長の案内で川越の七福神めぐりをすること
になっています。これには参らないと罰が当たりそうで、万難を排して参加しようと思って
います。
  そこで、そもそも何で七福神なのか、調べてみました。六福神でも八福神でもよいではないか
とへそ曲がりに考えながら。
  七福神信仰は室町時代末期ごろ、京都で始まったそうです。室町末期といえば、応仁の
乱などの戦乱の時代です。昨年のように大地震、大干ばつがあって、武士のみならず、
庶民も疲弊しており、福の神を求める土壌があったようです。今の代表的仏教はみな
この頃に誕生しています。
  商業が形を持ち始めたのもこの頃で、庶民が個人の富を願うようになりました。最初は
恵比須さんと大黒さんだけでしたが、これだけでは寂しいので増員しました。
  関西では今でもニ神だけを祭る習慣があります。江戸では徳川家康の政治指南役、天海
僧正による、七福神信仰の奨励で盛んになったといわれています。
  恵比須は律義、大黒天は有徳、毘沙門は威光、弁財天は愛嬌、布袋は大量、福禄寿は
人望、寿老人は寿命を表しているとか。
  これら七徳によって天下を統一したので、皆も神仏の七徳を拝むように、という訳です。
いじめる者、いじめられる者には、いずれの徳にも当てはまりません。私の応援する
落語家の笑福亭松喬の一番弟子、三喬がこの前、柳家喬太郎との二人会で「七福神」を
演じていました。仏教経典の「七難即滅七福即生」から来ているそうですが、とにかく「笑う
門には福来る」なのです。もっと笑えば争いも自殺も無くなります。
  私は今、ある学会に「都市部における減災」について書いています。以前、母から「関東
大震災時、姉を抱いて家の前にある竹やぶに逃げ込んだ」という話を聞いていたので、
それが本当であるかどうかを確かめるために、先日滋賀県まで帰ってきました。
  関東大震災の発生14日前に誕生した姉は今も健在で、寺に嫁ぎ、毎朝5時と夕方5時に
鐘を撞いています。滋賀県でも大きく揺れて母から何回もその話を聞かされていたという
証言を得てきました。
  時々、夕方の5時前になると姉から携帯が入ります。「これから鐘つくさかい、聞いてや」。
「ゴーオーン、ゴーオーン、ゴーオーン」「ゴーオーン」

2012年 晦日

 
以前の挨拶文